2012年12月28日金曜日

4-純粋無垢のもの


 芭蕉の言葉に「心の色うるはしからざれば外に言葉を工む。」といふのがあるが、これが芭蕉精神の根本である。俳諧の道だけでなく、これは我国あらゆる文学、否な有らゆる芸術の基本精神であるといへる。芸術だけでなく我国の「すべてのもの」の基本であり、それは「純粋無垢のもの」の追求である。
「み光美はしき女神」をたたへまつるといふことが、我国上代の中枢信仰であった。それは記紀を始め、権威ある古代伝承が一様に伝えて居るところである。「み光美はしき女神」をたたへまつる心はすなはち「うるはしき心」であるべきである。その「うるはしきこころ」は純粋無垢のものであった。それを清明心とも平心とも古典は記録して来たのである。その「うるはしき心」を「やまと心」として表現したのは平安時代の女流文学者であった。
その「うるはしき心」は「純粋無垢のもの」であるから言葉を工みて表現することが出来ないのである。本居翁は「朝日に匂ふ山さくら花」と歌った。それを養子の大平翁は「うるはしきよしなり」と注釈した。真の「やまと心」といふものはそれである。この純粋無垢のものを表現するために、又は追求するために、日本の芸術も宗教も精進して来たのである。書画の道も、茶や花の道も、音曲や踊りの道も、ひとすぢにそれを守り、或ひはそれを追求して来た。むろん幾分の例外とか邪道とかいふべきものもあったが、すべての流れの本流はそれであった。それは言葉や技法を工みて至ることの出来ぬ霊境であった。しかし芸術に「工み」を取り除いては成り立たないので、工みを錬磨して「工みなき工み」の美へと追求して行ったのである。宗教も芸術も「道を忘れて道を履(ふ)む」ところを目ざして進んだのである。印度思想と支那古代の老荘思想とによって洗練された禅が輸入されると、それは、たまたま我国の純粋無垢のもの、うるはしきもの、「工み無き工み」と合符するところがあったので、この外来の禅は直ちに「日本の禅」となり、体型づけられた推進力として鎌倉以後の日本文化の指導力となったのである。

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 これを絵画の方面にみても、日本画の線も色も構図も特異の発展をして来たのであって、支那の描法を学んだけれど、次第に直感的な「ひらき」が出来て来た。書道の如きも大観すると支那のものに及ばないと思われるけれど、流麗な線と美と匂いと「さび」との追求は独特な草仮名の書風を生んだ。
 日本画に於いては、混色や中間色を避けて、単純な二三種の色で万象を写しだした。それは「物の色」でなくして「物の心の色」を表現せんとする霊的努力であっった。
 更らに日本画の大きな特色をいふと、謂わゆる其の「余白」の表現力である。西洋画のやうに何処も此処も塗りつぶすやうなことがないのみならず、色もなく形もなき無限の余白によって、純粋無垢の美を現はさうとした。それは単なる「空白」ではなく、それによって画を活かしもし殺しもした。単に幽玄とか余韻とかをそれによって持たせるといふ程度のものでなく、余白のありかたに日本画家の大きな手腕を要し、苦心を要し、技法をさへも要したといへる。つまり日本画は描くところだけが絵画ではなく、描かぬところは魂ひをもって描いたので、それを鑑識して貰えぬなら、日本画といふものは其の真の美を半分しか鑑賞されないことになる。しかし、或ひは、それでいいのかも知れぬ。人間に対して価値のすべてを評価されないところに、鑑識を神さまに要求する意味もあるであらう。芸術といふものは元来さうしたものであるかも知れない。誰にでも価値のすべてを評価し得られるやうなものは芸術とは申されないかも知れない。余白は決して描き残されたところでもなく、描き足らぬところでもない。謝赫も気韻生動をもって画の第一義であるといった位ゐで支那に於いても古聖は余白の大切なことをいったけれど、中世以後それを真に解し得る霊的鑑賞力を欠き、せっかくの古聖の残した余白さえ、みだりに蔵印を押捺したり賛辞などを数多く書き込んだりして、それを得意とするほどになって了った。今から十数年前伊太利で日本美術の展覧会を開いたときに、横山大観氏が行って、日本画のもつ大きな特性として余白のことを説いた。その時に伊太利の新聞や雑誌は特に「余白」といふ漢字を活字に鋳造して、その紹介や批評の文章の中に入れたことがあったが、それが果たしてよく真に理解されたとも思へないのである。かって文学博士斎藤隆三氏も「神韻を内に蔵して活きた精神を生命とする日本画の真骨頭など決して他国民に会得され得べきものではない。」といふ結論を発表されたこともある。どうもそれはさうかも知れぬ。すぐれた外国人には日本画の「余白」もわかり、線条もわかり、水墨もわかるかも知れんが、なかなかむつかしいことでないかと思はれる。二十年ばかり前にフランスで俳諧が流行し、すごい勢ひであったが、俳諧の精神を掴むことが出来ず其の形態のみを模倣して居るので、どうにも指導の方法がないといふことを、そのころフランスから帰って来た文学者が或る雑誌に意見を発表して嘆息して居たがそれはそうであらうと思う。俳句は此の数年前来また一種の理由からして我国の人々の間にも盛んになったが、しかい俳諧の心から脱線して行ったものが多いことも事実である。日本人だからといって、多くの人に日本の芸術が真に会得されるといふわけには行かない。それを他国の人々に会得させるといふことは、よほどの難事業であらう。文化的に世界平和のためにつくすと申しても、日本から世界へ贈らうとするものが、他国の人々に真に得とくされにくいものであるならば、じっさい困難なしごとである。しかし、それにしても守るべき芸術は守って行って、その通俗化や堕落を避けて他国の人々に会得される日を待たねばならぬ。会得されやすいやうに日本芸術を通俗化したり、ゆがめて行ったり、まじりけを加えたりして行くことは、真に世界の文化に貢献するといふ誠実の道であるまい。
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 音楽といふやうな方面から見ても、同じことになると思ふ。アリストテレスは「政治哲学」の中で、「いい音楽は精神を清浄にする。」と云ひ、「心を清める力のある音楽は人々に無邪気の愉悦を与へる。」とも云って居るが、それは世界共通の真理であらう。我国に於ても其の音楽の大部分は心神慮に適ふもので、神道と神楽の関係は申すまでもなく、雅楽、能楽、尺八楽、箏曲、琵琶より義太夫、長唄、民謡にいたるまで、どこかに「純粋無垢のもの」を追求し、うるはしき心に格合させる力を持たぬものはない。雅楽や能楽の貴族的なものだけが魂を清浄にする力があるのではない。夕陽のうすずく浅間の麓に馬子歌を聴き、北海の荒浪の轟きの間に追分節を聴き、行く秋の南部の平野に牛追ひ唄を聴き、秋田の山中でこだまする山唄を聴くことは、木曽で木曽踊を、伊那の峡谷で伊那踊を、福井の東尋坊に海女の三国踊を、佐渡の相川におけさ踊を見るときと、同じ心のしめりと涙ぐましさを感ぜしめずには置かないが、それは「純粋無垢のもの」に触れるからである。それはすこし大袈裟にいへば、凡人を聖化するほどの力があるのである。しかしそれは、日本の音楽だけのことでなく、西洋音楽にも無論立派な芸術性がある。しかも組織立った芸術として吾等の尊敬に値するものがある。バッハのフーグや、カンタータ、ヘンデルのオラトリオ、モーツァルトの室内楽、ベートーヴェンの交響楽、シューベルトの歌謡曲、ワグネルの楽劇、ショパンのピアノ、ヴュータンのヴァイオリン等々、それはとりどりに日本人の愛着を感ぜしめるものではある。けれども、それには日本の神が宿って居ない。日本人を純粋無垢のものへつなぐ力が乏しい。もっとも今日の青年子女の中には、斯ういふ風にいふことを却って奇異に感ずるものが多からう。音階の簡単な日本の音曲には吾等青年は何の魅力も感じない。西洋音楽でなければ音楽とは云へないといふ気持ちが偽らざるところであらう。これは、すでに日本人から離れつつある日本人であり、謝った教育の影響もあらう。さればこそ比島や支那大陸に於いて「日本の道」をけがすやうなこともやらかしたのであらう。
音楽に関する学問の権威、田辺尚雄氏は「西洋音楽はダイヤモンドを磨いて光らせたやうなものであるが、之に反して日本音楽は光って居る金をいぶして殊更らに曇らせたやうなものである、さびとか渋味とかいふものもそれである、日本音楽は殊更らに和声を隠して表面にあらはさず、旋律をもって楽想を描き出して其の中に深奥の幽玄を想像せしめんとして居る、これは日本人の頭脳の優秀性を示して居る。外国人は旋律の上に和声の色までベタ一面に塗りつけなければ感じ得られないやうなところの想像を、日本人は単に旋律の微妙なる線のみによって充分感じて居るからである。」といって居られる。近ごろの多くの青年は、その魂ひの修養がなく、あたかも「いぶし金」をみて、それを煤けた、きたないものとみる以上の霊感的知性が欠けて来た。此の霊感的知性が欠けると、比島戦線や支那大陸で、あんな非日本人的行動を敢えてして日本の歴史を汚すに至るのだ。われわれは日本人の、霊感的知性、真の大和心、うるはしき心、純粋無垢のものの保衛、復活、育成こそ、何よりのことと考えて居るのである。

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 アウグスティヌスも「歌われる内容よりも歌ふ音声の魅力を尊重することは正に音楽の堕落である。」と云って居る。これは如何にも日本の音楽の立場から宣言したかの如くにさへ聴こえる。その「歌はれる内容」といふのは、その歌詞とか、その歌詞が描いた事件とかいふ形骸的なものを意味せず、何といっていいか、その歌はれる叡智的な気分とでもいふべきものだらうがその表現こそ生命であらう。ただ音声なり楽器なりの技巧が如何に手の込んだものに発達しても、それは楽譜にすれば立派なものかも知れんが、音楽の堕落といふべきであらう。その「歌われる内容」が生命があるなら、江戸末期に発達した花柳音楽の如きものでさえも真の音楽としての価値をみとめる部分があるかも知れない。
 音楽に限らず、日本の芸道は、どの道にしても「いのち」をかけた真面目さをもって精進せられた。いのちがけで純粋無垢のものが追求せられたのである。芝居でも同じことで、名優と称されるやうな人は舞台に立ったときも自宅に於ける生活も別々のものでなかったので禅でいふ寤寐恆一の境を離れなかったものである。鬼貫は「誠の外に俳諧なし。」といったが、その「まこと」の心、真の「やまと心」が有らゆる芸道の本となったのである。平素は野球をやったり銃猟に行ったりして、舞台に出れば女形をつとめるといふやうな器用な真似は本当には出来ないことで、日常生活から女になり切って居て、それで始めて、舞台で女にもなれたのであって、誠の外に芝居無しであった。神道者をもって任ずるほどのものが、平素に於いて物を愛せず、「もののあはれ」を感ぜず、抜苦与楽の心がけに相応せずして、初穂料を貰って御祈禱するときだけ、その格好をするやうなことでは問題にならぬと思われるのである。
 女形の名優は女役を忘れぬために自宅に於ても針しごとをしたといふほどである。岩井半四朗の如きは、銭湯も女湯へ行ったもので、近所の内儀さんたちは、すぐに押しかけ、何は何でも大和屋さんにと、吾さきに小桶に湯を汲んでやったりしたが、半四朗は愛想よく受け流し、いつも立膝でお行儀よく糠袋を使い、さっさと洗って帰って行くが、どうみても男とは見えず、それは身体の構へと、立膝にした片膝の置き方と腰の据ゑ方のためだといふ。故人尾上菊次郎はえらい女形で、自分より年下の六代目尾上菊五郎の女房役として死ぬまで自分の年を明かさなかったといはれる。自分が相手より年上だといふことが判ったら、自分の芸の艶が感応しなくなるだらうといふ用意からである。平生でも六代目は、自分のことを兄さん兄さんと呼んでゐたといはれる。だから菊次郎が死んだとき、六代目は、自分の直侍で三千歳をつとめてゐた菊次郎と二人立ちの大写真の額の前で、ぼろぼろ涙を流し、「おい、なぜ死んだんだ、お前が死んだら、もう直次郎って役は、おいらにゃ出来ねえんだぜ。」と泣きじゃくり、そばに居合せた人たちも胸を打たれて慰める言葉もなかったといふ。舞台の上で、こしらへた芸で、人気を売らうとする俳優などは愧死すべき芸道の悲話であると思ふがそこに真の「純粋無垢のもの」を追求する日本の姿があると思ふ。

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 純粋無垢のものは次元を越えて霊界とも交通する。それは音楽であれ書画であれ、劇や舞踊の如きであれ、農芸や工芸の如きものでも其の至所は同様であり、強いて言えば神法道術の如きも決してそれらと没交渉のものではないのである。
 松江市の中学の先生をしていたラフカジォ・ハーン(小泉八雲)といふ英国生まれの文豪が英文で書いたものに「耳無し法一」の話があるから、それを一寸申し上げておく。
 七百年前、壇ノ浦に於ける平家一門の没落にちなみて、後生その沿岸には種々の霊異談があるが、これもその一つ、今から三百年前に赤馬ヶ関(下関市)に法一 といふ盲人の琵琶の名人が居て、その秘曲とする壇浦の曲を奏するときは鬼神をも泣かせたといふが、その附近に阿弥陀寺といふ寺があり、そこの和尚がこの法一を保護し、寺院内の一室に住ませてゐた。
 ある夏の夜、法一は和尚の帰りを待って居たが法要のためか夜半になっても和尚は帰らなかった。そのとき突然武士らしいものが一人やって来て、法一へ申すには、何も恐れるに及ばぬ、自分はさる御方の使者だ、我が君は高貴の御方であるが、壇浦の古戦場を見物のために御忍びで此の地へ成らせられたのである、かねて其方の妙技をきこしめされ、一曲を所望あそばすので自分と共に同道せよ、とのことで、法一は武士に手を引かれてついて行った。どことも知れず立派な御屋敷らしいところに着き、大門を開かせ大玄関を入り、大官、女御の集会らしき大広間に案内された。そこで仰せのままに壇浦の一曲を弾奏し、かくべつな賞讃にあずかり、引きさがるときに、老女と覚しき人の申さるるに「我が君様のおよろこび斜めならず、今後六日間引きつづき参殿せよ、最後の日に御褒美を取らせる、だが、今晩のこと一切訂無用であるぞ。」とのことで、以前の武士に送られて阿弥陀寺に帰った。その翌晩も同様であったが、寺に帰ってから和尚から何処へ行ったかと詰問された。しかし法一は一切他言しなかった。その翌晩も又た出て行ったので、和尚はひそかにあとから寺男を尾行させたが法一は非常に早足で姿を見失ってしまった。たづねあぐんで帰るとき、阿弥陀寺の墓地のあたりを通ると、法一が雨に濡れて、苔蒸した平家戦没者の供養塔の前で、一心に琵琶を抱えて居るのを見、法一さん法一さんと呼んでも返事がなく肩を叩いて耳もとで呼び立てたので漸く正気づいた様子なので連れ戻って、ねんごろに問ひ糺すと、つつみきれず第一夜からのことを白状した。和尚は驚いて、このままにしておくと七日目に生命を取られるにきまって居る。この難を免かれる工夫をしてやらねばと、法一を裸体にして弟子どもに手伝わせ、からだ中すきまなく般若心経を書きつけた。そして和尚は法一に対して「今夜も武士が迎えにくるだろう、何と呼ばれても返事をしてはならぬ、黙って居て声を出すな、一心に坐禅をして居れ。」と申しつけた。
 やがて件の武士が来て、あちこちと法一の姿をさがして居るらしく、やがて琵琶を見つけて、此処に居るじゃないか、と声をかけたが法一は黙り込んで居た。武士は、これでは復命が出来ないとつぶやいてゐたが、ふと法一の耳をみつけて、これを証拠に持ち帰らむと立ち去った。法一は耳もとがひやりとして、生ぬるいものが落ちてきたが、今こそ大事なときと黙座をつづけて居た。夜が明けて和尚が来てみると、法一の耳がない。よくしらべてみると、心経を書きつけるときに顔の方は弟子にまかせておいたが耳へは字を書いて居なかったことがわかった。それで耳だけむしり取られたのを和尚は残念がった。しかしその後は何の奇異なこともなく、法一は耳無し法一と綽名されて琵琶の名声は一層たかくなり、永く安楽に世を送ったといふ話。
 この現象についての霊的説明は私が書かなくても同士諸君がそれそれの見解を持ち合わせて居られることと思ふから差控へるが、音曲も純粋無垢の境に出入すれば、エーテル感度の次元を越えて、幽顕に通ずるといふことを今更の如く一言しておく。

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 心の色うるはしかざれば外に言葉を工(たく)むといふ芭蕉の見つめるものは、俳諧や歌だけのことでない。絵画における余白の如く、又た日本音曲における「間」のごとく、たくまざる芸道の至境である。我国の音曲に於いては「間」といふことが極めて大切で、それによって音曲の生命がつながるものとされ、余情の神韻が現はれるものとされてゐる。これは何か特殊の専門的な教養がなければ、その感応がないものかといふとさうではなく、この芸道の精神は相当に大衆化されて居る面もあり、その面でも、誰もが感応するやうになって居るのである。
 高田実といふ役者は、何もしないことに於てえらい芸をもってゐた。「己が罪」の芝居で彼は漁師作兵衛をやり、大当りをとったことがある。舞台は平塚の海岸、正弘少年が溺れかけてゐるのを玉太郎が助けようとしてこれも死にかける。知らせを受けて玉太郎の里親たる作兵衛は一散に馳せつけて来て子供たちの世話をやく、そこへ二人の母なる環が駆けつけて来て、子供の屍骸にとりすがってワーッと泣き崩れる。そのときまで高田の作兵衛は殆ど狂気のやうに子供たちの介抱をしたり、漁師仲間にいろいろ用事を忙しく云ひつけたり、ひとり舞台で働いてゐたのが、環が出るとともに一切の仕事をやめ、うしろ向きになり、ぼんやり棒立ちに突ッ立ってしまふので、その突ッ立ったうしろ姿が、どうみても本当に泣いてゐるようで、舞台の正面で大愁嘆に落ちてゐる環よりも、見物は棒立ちのうしろ向きの何もしない高田のために泣かされるのである。
 東洋芸術の神髄として歎称されてゐる能楽にしても、日本画の「余白」を活かす芸術と同じ心のもので、ここでは音と言葉のリズムの上の余白である。音の旋律を極度に省略して、沈黙を活かすことに力をそそいでゐるのである。日本人は沈黙によってのみ、真の芸道の要素が表現されることを昔から神悟して居るのである。茶人が陶器を愛することはかくべつで、僅か十字か二十字かの文字通りの断簡零墨でも、いのちがけで宝貴珍玩することは外国人の理解しがたいものであるが、日本人の茶器に対する馬鹿げたほどの鑑賞態度は、たうていよその国の人には会得されないもにである。珠光の「わら家に名馬をつなぎたるがよし。」といふ世界であって、ただ美術品に対するとか、骨董品に対するとかいふやうな境地に低徊して居るのでなく、ずっと高い次元に於ける精神活動である。

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 たくみなき心をもって神界の実相に直面することと、純粋無垢のものを追求することが「石城山の宗教」である。これは理屈や説教だけでは表現することも、看取することも出来ない。やはり何度でも「工みなき心」をもって石城山に登って貰ひ、この霊境で、みっしりと音霊法でも修行して貰はぬことには、どうにも説明の方法がないのであらう。

ー昭和二十年十月二日記ー

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