2012年12月31日月曜日

1-春風遍路 はしがき


「ひとは、さまざまにカントを読む」やうに、聖書も法華強も古事記も易経も、マルクスもサルトルもまた、さまざまに読まれるでありませう。
霊界は無限のコンプレックスであり、人間界も、その霊界の一断面に過ぎぬといふ立場に居る私どもからの、ものごとの見かたを折にふれて語ったものの中から、石城山の編集室で若干のものをとりまとめて一冊子にしたいとのことで、それもさまざまに読まれるでありませうけれど、ともかくも、さうしていただくことにしました。
 二千何百年か前の支那の古い本に書いてある話。
或ところに猿ずきの人が居て、沢山の猿を飼ひ、よく愛するので心と心が通ひ、言葉もよくわかるやうになりました。ところが、財政がすこし困る事情が起こりましたので、飼料たる毎日一升宛(づつ)の栗を少し制限する必要に迫られ、ある日、猿どもへ相談を持ちかけました。
「これからは、栗を午前中に三合、午後に四合といふことにしたいがどうだ。」
猿ども大不満でぶつぶついひました。それで、
「それでは、これからは栗を午前中に四合、午後は三合といふことにしてはどうだ。」
こんどは猿どもは、ほくほく悦んで感謝しました。
つまらない話と思はれますか。ちかごろのいろいろの思想についても何か「にんまり」と微笑せられるやうな節ではありませんか。
 智育の発達した今日の人間さまは、猿ではないぞと考えられますか。




昭和二十四年春四月
磐山老人

春風や堤長うして家遠し   蕪村


2012年12月30日日曜日

2-吾等の道標

 斬ったり殺したりしることが「やまとだましひ」ではない。「やまとだましひ」といふ言葉は紫式部の源氏に書いてあるのが初見であらうし、「やまとごころ」といふのは同時代の御堂関白道長の室倫子に仕えた女官の赤染衛門の歌に出ているのが初見であらうし、平安朝の女流文学者から用い始められた言葉がどういふ意味をもつであらうかは、其の時代と人物tを考へてみてもわかる筈で、このことは昨年か一昨年此の「古道」紙上に於いても言及しておいたところである。

 源氏物語をとめの巻の出ている大和魂といふ言葉の意味は多くの学者によって誤解されたままで伝えられて来たようで、当時の新思想たる漢字を才(ザエ)を本とし」、大和魂を末としたかのように解されたが、事実其の反対せ才(ザエ)は種々あるが、やまとだましひが本でなくてはならぬころを紫式部は強く主張しているので、これは其の当時の漢字は表向き男子の独占するところであったので、それに対する女性の立場からの抗議の意味も含まれて居るのである。そんなら大和魂は何であるかといふと、今から五百年前、一条禅閤兼良は、大和魂に定義を与えて「わが国の目あかしになる心なり」といった。近ごろの言葉に直せば、我国の指導精神といふこころであらう。これは如何にも立派な定義で、我国の目あかそとなる大和魂が、すべての基本となって、世界の文化へも力をおぼよして行かねばならぬのである。

 「やまとだましひ」と同義語である「やまとごころ」といふ言葉は赤染衛門の歌に初めてあらはれた。それは其の時代の「うるはし」といふ言葉とも「なまめかし」といふロット叔母」とも通ふところが深いのである。「なまねかし」といふ言葉は後生その意義が変化して卑俗な意味をもつようになったが、平安時代における「なまめかし」という言葉は、崇高な美とでもいふものを対象として放たれた言葉で、ことさららしくない美はしさ、うるほひのある浄潔な美はしを意味したもので、有名な本居宣長先生の大和心の歌のこころも、実はそれだけを詠嘆して居られるのである。
「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山さくら花」といふ歌は、いかなる日本人もが知って居る有名な歌であるが、又た此の歌ほど誤った解釈が行はれて来たことも珍しいといへるであらう。桜花の散りざまのいさぎよさまで聯想させて、武士道的観念で説かうとして来たのが一般の風であった。
けれども作者たる本居翁は今更ら申すまでもなく源氏の研究には多年の精根をかあむけつくした人で、平安時代の語感がもつ「やまとごころ」「やまとだましひ」を味わひ得なかった人ではない。この歌について伴信友から質問されっとき、本居先生の門人で養嗣子であった大平翁は「うるはしきよしなりと先師いひ置かれたり」と返事して居る。この信友と親しかった平田篤胤先生も、その著「古道大意」の中で、この歌を解して山の桜の美はしく咲いたところへ朝日の照りそふような、うるはしく、清く匂やかな心だとのみ記しておられる。
大和心が武士道の独占的のもののように解されて来たのは、平安時代から下がって、鎌倉室町江戸と武家が政権を握って「指導者」となりすましてゐたためである。ついでにいふが大和心の美は「うるはし」であって「うつくし」ではないのである。平安時代に於いて「うるはし」と「うつくし」は同義でなく、別の意味をもって居る。源氏物語を全部通講せられただけでも十何回に及んでゐるほどの本居先生が、大和心の「うるはし」を味得せられなかった筈はない。

 このとうな平安時代の源義による「やまとごころ」は即ち大和魂であって、それが「わが国の目あかしになる心」である。この本来の純潔な、媚態もない美、すなわち其の「我国の目あかしになる心」であって、これは決して昔のことでなく、今日に於いても、明日に於いても特に国民の注意を要する重大なことであると思う。
 やまと心は才(ザエ)の本になるもので、芸術も科学も産業も要するに才(ザエ)であるが、その本は必ず「やまと心」でなければならぬ。これは民族の優越感とかお国自慢とかいうようなものではない。世界共通的なものであると思ふ。東洋っであれ西洋えあれ古来の大詩人や大芸術家や大哲学者や大宗教家や大科学者に共通するところものである。この本来の意味の「やまと心」が新しき才(ザエ)と正しく調整されて進むところに人類の新しい理想郷が描かれるものと信ずる。

 われわれのやうに只、ひたむきに霊学をやって居るものは、又その立場から、特に「やまと心」を本として、反省もいたし、修養もいたさねばならぬのである。どんなにいろいろの理論や技術的方法」に長じたからといって、根本の「やまとごころ」が崩れたら、それは邪道に堕ちたものとならう。これからさきの道、どんんい浪風は荒くとも、いかに山坂道が険峻にならうとも、しっかりと「やまと心」を抱きしめて、悲願の旅をつづけて行かねばならぬ我々である。
 誤解を避けるために申し上げておくが、大和魂を武士道に集合させて説いて来たことが悪いといふのではない。それは鎌倉時代からのことであり、それはそれで過去に立派な役目を成し遂げて来たのである。けれども今や平安時代の言葉の源義による「やまと心」の本体をみつめる時代に入ったのであつて、これは必ずしも平安時代の創作ではなくして我国の古伝である。日本記に於て天照大御神のあれませる御すがたを称えて光華明彩(ミヒカリウルハシク)とある。その「うるはしき心」がやまと心」であって、「うつくし」でなく「うるはし」である。この「うるはし」という言葉は前にもいった通り嬌態も媚態もなく何の濁りもなく崇高な清く匂やかな美を言葉にうつしたのである。平安時代では、普通の美しい女をみて「うるはし」とは申さぬので、又さう評されたら其の女の美しさを褒めたことにならぬのである。なぜなら嬌態か媚態の気が幾らか含まれねば普通の女としての美を歌はれたことにならず、清らかな気高い美姫ではあるが、女としての情味に乏しいといふ風な心もちに取扱はれてしまふのである。平安時代の言葉の「うるはし」といふのが、どういふ意味のものであるかを改めてよく噛みしめておかるる必要がある。本居先生の「朝日に匂う山さくら花」を「うるわしきよしなり」と大平翁の伝へたことは深く考えていただかねばならぬ。その「うるはしき心」が即ち大和心であって、一条禅閤の「我国の目あかしになる心」である。ただの歌人のつれずれの筆のすさびと思はれてはならぬ。容易ならぬ大問題であるし、現下の日本人として特に大いに反省を要するところである。しっかりした心構への基本がなく、朝三暮四、ただ場あたりの標語の」やうなもので、ふらふらとしてはならない重大なる「神変時代の日本」に入ったのであるから、この「我国の目あかしになる心」を改めて見直していただかねばならぬのである。

 この九月四日、第八十八臨時議会開会院式にあたりて賜った勅語ぬ、「平和国家を確立して人類の文化に寄与せむ」と仰せ出あれてある。これは億兆一心奉公せねばならぬ今後の方向の大綱であろう。それにはどうしても我が古語の源義における大和心、うるわしき心が反省されねばならぬ。又た同じ勅語に道義立国の皇謨に則れとも明かに昭示せられた。われわれは大みことかしみ「道義立国」の皇謨に則ることを寤寐忘れてはならぬ。
しかるに此の道義といふことは。吾々の見解では、「この世」だけを見て居ては徹底せぬし本物にならぬのである。どうしても人間死後の問題。もっときびしく云えば生前死後についての認識が出来て、幽顕無畏といふところまでいかなければならず、そのことについても今後大いに同士諸君の努力を要することであるが、実は我等二十余年今日までの努力も大半それであったことは改めて茲に申し上ぐる迄もないことで、この意味に於いても吾等の努力の方向は大体に於いて従前通りということになるであらうと思う。
平和国家を確立して人類の文化に寄与するということは、言葉だけで平坦に考へると格別の心配は要らぬやうであるが実際問題としては非常な艱難努力を要することである。道義立国といふことについても「忍辱」といふ方面からも考へておく必要がある。相手が徹頭徹尾道義で来るのなら其れに対して道義を以て報いるのは何でもないことで、日本民族は元来道義的なのだから何の変哲もないことであるが、道義」と」いふものは、必ずしも相手が道義で来ないときでも我方としては道義でいかねばなえあぬので、そこになみなmじならぬ「忍辱」の力を要するので、よほどの信念と真の勇気がなければ出来ないことである。しかもそれが四角張った所謂道徳的な心構へだけでやったのでは生命がないのである。それを本来の意味における大和心、うるはしき心でやって行かねば生命のないもの、感化力のないものになってしまう。「うるはしき心」で世界中を感化し尽くすほどの崇大な宗教的抱負がなくてはやれぬことである。
 政治とか宗教とかの面からだけ云へることではなく、科学も芸術も、あらゆるものが本来の語義における大和心、うるはしき心から出たものでなくては真の生命がないので、これは大きな、むつかしい問題だけでなく、絵画でも文学でも音曲でも、どんな芸のどんな些末なところにもそれがあるのである。踊りや芝居の一寸した「しぐさ」にもそれがあるのである。音曲にしたところで、西洋音楽は楽譜があれば伝えることも出来るが、日本の音曲はさうは行かぬ。音と音との間の気分とでもいふものに「うるはしき心」と道交するところがなければ物にならぬので、師匠について苦労をするし、いくら同じことをやってもうまく行かぬと弟子も泣き師匠も泣き出すという始末である。しかしそれが出来上がると、すなわち伝神の技であって天地鬼神をも感動せしめることになる。それは才(ザエ)だけでなく、その本が大和心、うるはしき心につながるからである。このことについては追々に尚ほ重ねて申し上げる機会を得たいとおもふ。
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 今や世界は「神国日本」の犠牲によりて一新せられんとする大神変時代に入ったのである。何もかもが殆ど百八十度の方向転換を行はんとする身構へのやうに見える。しかし本当の大和心が曇って居て、ただ才(ザエ)だけでやることはながい生命がなく、一害を除かんとして更に多くの害を生ずるやうなことさへもがな云えぬ。
西印度のジャメイカ島では甘蔗園の鼠害に悩まされ、その鼠を除くために東印度から大イタチ(マングースともムンゴともいひイタチに似て居る)を輸入した。輸入されたムンゴは始めは九頭であったが、十数年後には大変な数に増加し、鼠を殆ど食ひつくすと、猫、豚、羊、山羊、家禽まで食ふようになり、更にパイナップルや甘蔗などにも及ぶやうに至り」、島民は大恐慌を来したのである。害虫を食物とする鳥類や両棲類の動物まで食ひ荒らしたから害虫は益々増加するし、農家は大害を蒙るに至ったのである。先年のこと稲田を守るために我国でも雀の根本的征伐を提議した人があり相当論議されたが、雀が全滅すると害虫が激増するといふ専門家の意見で沙汰やみになったことがある。ものごとは其の必然的に起こってくる反動的勢力との利害を計算してからでないと、滅多なことは出来ないのであり、民族の信仰とか習俗とかいふものに対しては更に慎重の態度が必要である。
ムンゴについて想ひ起こすのは、今から三十年ばかり前に、我国の有名な某博士は東印度から輸入して鹿児島県奄美島に放ち、島民がハブというふ毒蛇に苦しむのを救ふことにした。「博士」の慈悲心は成功してハブは極めて少なくなったが、ムンゴは同島の大害動物となり、島民はムンゴを「博士」と呼んで居た。
 今後の日本に科学教育は大いに必要であること誰でもいふところで、吾々とても無論同感であり、多年そのことは此の「古道」紙上に於いても申し上げて来たところえあるが、しかし科学の発達、文化の発達に伴う人類の逆淘汰」といふやうな問題も考えなければならぬことである。医術の発達につれて人類が退化する部面があることも専門家の指摘するところの如くであり、社会事業の発達に連れて不徳義漢や無能者を増加する傾向があることも其の方面の専門家が厳密な調査と研究を遂げて居るところで、それに似よりのことは他にもいろいろあり、仏教の如きも科学的研究が進めば進むほど、仏教の光は却って曇り、人を救ふ実力は弱くなりつつあることも世人の知るところの如くで、科学的とか非科学的とかの一語を以て物ごとを評価し去るほど危険なことはないのである。
×    ×    ×
 さういふ意味から云って、普通の医薬によらざる方法で実際に病気がよくなり、或ひは悪化せずに済み、人の苦しみを抜き、世を救う一助ともなるならば、医薬の乏しい今日としてはまことに結構なことで、それがため稀にる弊害をことさら誇大的に言い募って、非科学的なものとして排斥するのは当たらないことである。太霊道の田中守平や静坐法の岡田氏が四十才ばかりの働き盛りでポックリ死んだからといって、その治病保険の方法が無価値といふわけに行かず、人の寿命とか生まれつき頑健とかは別個に考へられるべき問題で、其の術なり方法なりの価値がそんなことで影響を受ける筋合のものではあるまい。
 今から十年ほど前に、小山青峯翁といふ人の著「百病治癒秘訣」という本について徳富蘇峰氏が大阪毎日新聞に書いて居たものがある。その本は私は読んだことはないが蘇峰先生は「病を治する薬用によることは、大己貴尊、少彦名尊以来、神農以来、或いはヒポクラセツ以来のこと、今更ら事あたらしく講釈の必要はあるまい。此と同時に薬を用ゐずして病を治する方法も、亦た古来より伝はってゐる。所謂る加持祈祷の類は、我国に於いては一般に行われ、就中上流社会には尤も行われ而して恐らくは現時に於いても、尚ほ行われつつあることは、吾等が名言を待たない。現在の西洋にも亦たクリスチャンサイエンスなるものあり、専ら心霊的作用もて、療病の術を施しつつあり。而して我国に於いても其類決して少なくない。」と書いて居られる。ただ当たり前のことを述べて居られるだけで、茲に取り立てて紹介するほどのこともないが、しかし世間には偏屈な考へから、いろいろの酷評をすることを識者の特権でるかの如く心得て居る人もあるのだから、蘇峰先生の穏健な見方を敢へて紹介した次第である。至尊の御健康を祈祷し奉る所謂「後七日修法」なるものが本年一月京都東寺に於て中古以来のままに行われたことも世人の知るところであらう。
雲上の御消息については、記録文書によって拝読したこともあり、或る特別な筋の人たちから洩れ承はったこともあるが、そういうことは、畏れ多くて言挙げすべきではないが、民間における霊的保険法とか、治療術とかいふものは古来いろいろのものがあり、如何はしいものもあらうけれど、伝承のたしかなものもある。さういふものは今後いよいよ盛んに行われることが望ましいと思ふ・しかしどんな霊的秘術を心得て居る人があるにもせよ、根本問題は其の人の「心」の問題である。それは必ず本当の意味における大和心でなくてははらぬ。うるはしき心でなくてはならぬのである。さうでないならばたとひどれだけの好成績を挙げても、さのみ尊敬するに足らぬものになって了ふ。うるはしき心からするならば、何等かの条件に妨げられて好成績が見られない場合でも力を落すに及ばぬことである。

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 大戦は終わった。平和国家の確立に、道義立国の皇謨に則り行進する一途があるのみである。斯ういへば簡単だが、申し上げたいことが私の肝の底に多過ぎて困って居るほどである。どこから、どれを、どんな風に引き出して申し上げるべきかに迷うほどである。けれども八月中旬以来といひたいが、実は七月末頃から私共は種々の重大な気流におし包まれて来た。よくもその激流に押し流されずに来たものだと自分ながら不思議な眼で自分の身辺を見廻すやうな光景が、偽らざる今日の状況である。だからまだ落ちついて書きものをするといふ気にもなれないのである。そこで種々の問題には今後気長く研究させて貰ふこととして、取敢えず茲に、私自身のこれからの「旅」の道標を要約して申し上げておきたいと思ふ。これはまだ天行居の代表的意見といふわけではなく、私一個の私見の段階にあるに過ぎざるものではあるが、恐らくは多くの従来の同士諸君も大体に御異議はあるまいと思われるものである。それは、
一、皇国伝統の護持
二、家庭倫理の死守
三、大和心の真の反省
四、霊的文化の開拓
といふことである。これを詳しく解説するとなると、今後また何年間かを要すると思ふ。が第一の皇国伝統の護持といふのは、吾々の考えでは国体護持は勿論のこと、その他の伝統を精神的に護持して行かねばならぬといふこと、具体的にいふと神宮神社の尊厳の護持といふやうなことも其の一つである。第二の家庭倫理死守といふのは、婦女の貞潔が厳守されねばならぬことは勿論、日本民族の家庭としての空気が清潔温淑(おんしゅく)に保持されて行かねばならぬ。それが崩れるなら国家が崩れるのでる。小問題の如くにして大問題である。
だから「死守」といふきびしい言葉を使った。第三の大和心の真の反省といふことは此の小篇に於いてすこしく申し上げたから大意はおわかりだと思うが、まだ言葉が足りないので、今後いろいろの方面から力説して行きたいと考えて居る。第四の霊的文化の開拓、これは吾々同志が既に三十年前来やって来て居ることではあるが、今後かくべつな実践的努力が要求されてくると信ずる。われわれは今後この日本国を大科学国としなければならぬが、霊的文化の開拓といふことは決してそれと対蹠的(たいせきてき)な姿勢のものではないのである。高度物理学的思索の如きも広き意味において霊的文化に包含されるべきものである。じっさい既にそうした方面は普通の言葉でいえば科学と哲学との境まで行って居ることを専門学者も先年来説いて居らるるところである。
しかも霊的文化といふぃものは古いものが反省せられ研究せられていい方面もある。大きな問題だから、それそれの立場の人が、それそれの立場で努力せらるべきものであると思ふ。
                                 ー昭和二十九年九月七日記ー


2012年12月29日土曜日

3-ホビヤと人生


 私には哲学といふものがよくわからぬ。私の乏しい読書力で三十年ばかり哲学に関するものは少しは読んでもみたし、考へてもみたし、又た或る一二の先生の御指示を受ける機会もあったが、どうもよくわからぬ。この十年ばかり前から世間でも問題になって居る西田哲学についても同様である。けれども西田哲学で「すべて形有るものは形無きものの影なり」といふことは全然同感であり、私共としても三十年前から其の意味の方針でやって来て居り、さういふことを公刊物で講途することも既に二十余年間にわたって居るのであって、形あるものは形なきもののであるといふ意味のことが吾々の三十年前の万事の考へ方の基本であったこと今更改めて説明するまでもないことである。しかしそれは三十年前に於いて私共が創案したといふwけでも何でもなく、これは古来の東洋思想」であって」いろいろの言葉で語り伝へられて来て居るのでる。
それが西田博士のような世界的に有名な哲学者によって新しい学的体系のもとに説かれると、新しい知識人も始めて注意するやうになるといふだけのことである。
 形有るものは形無きものの影である。すべてのものは「ますびのむすび」である。だから神道の「祓ひ」の行事の意義もあるのである。うるはしき「やまと心」に吾々すべてのものがなりきるならば、うるはしき「やまと」の国が其処に出現するのである。やまと心の同義語である「やまとだましひ」といふことも其の本義は鎌倉期以後の武士道と集合した解釈のやうなものではなく、平安時代の女流文学者によって創唱せられた「やまとだましひ」とか「やまと心」とかいふものは、只だ「うるはしき心」を意味するのみであるといふことは前号の本誌上に於いても申しておいた通りである。この原語の本当の意味における「やまと心」が今後の日本文化の基本とならねばならぬものであるし、これは世界に押しひろげて世界を「うるはしく」する力あるところのものでる。実際問題として、それは容易なことでなく、長年月にわたる忍耐力を要し、功を急ぐことの出来ぬ問題で、外電の伝ふるところでは日本も今や四等国に転落したさうであるから、今日に於いて世界の指導精神が日本に存在するなどといふことは、耳を傾ける人もあるまいけれど、軒端の点滴でも石に穴をうがつのであるから吾等は決して望みを失はないのである。けれども海外を展望するどころか、今日としては先ず吾々自身が此の「やまと心」の真の反省に努力せねばならないときである。それで今後も種々の方面から此の「やまと心」の真の反省といふことについて語り、同時に吾等三十数年来の宿願たる霊的文明の開拓といふことにも微力をつくして行きたいのである。われわれのさうした悲願と努力は、いかに小さなものであるにもせよ、これを正しく守り、正しくつづけて行くことは真の世界の文化、真の世界の平和への応分の尽力を意味するものであると信ずるのでる。
 文学にもせよ其他の芸能にもせよ、すべての文化の基本精神は此の「やまと心」の真の反省から出て来なければならず、同時にそれは霊的文明への反省を意味することでなくてはならず、これは更に農業にも工業にも医学にもといふ風に、あらゆるものに及んで行くべき筈のものである。たとへば農業にしても肥料問題の如きが刻下焦眉の大問題であるが、従来の形式における化学肥料から退一歩の工夫を要するのではなかろうか。化学肥料、金肥は実際問題として今日行きつまって居るのである。これはどうしても或る程度むかしの日本農業方式に還ることが必要であらう。農具の如きは一層科学的に機械的に進むことが望ましいであらうが肥料の如きは実際問題としてさう行かなくなったのでないか。農人は或る程度むかしのやうな肥料使用に還る事によって、かけ声や説教だけでなく、本来の「うるはしき」農業精神に復ることが出来ると、私は確く信じて居るものである。これは一例を申したに過ぎぬが工業や商業でもさうであって。「うるはしき心」原語の持つ意味における「やまと心」に反省するのでなければ、工業も商業も魔道に堕してしまひ、神々に遠ざかって行くのみであると思ふ。店頭のわづかの商品を売っても、それが商行為であると同時に道徳行為であり、あおれによろこびを感ずるほどの「うるはしき」商業に復って行かねばならぬ・かって或る程度までそれは昔時に行われて居たことであるから今後追々に行われない筈はない。工人の場合に於いては更にさうであって、雨傘一本造るにも、うるはしき「やまと心」が基本となって、すこしでも「ため」のいいものを造ることに無限の悦びと趣味を感ずるところまで復って行かなければならぬのである。今日の有様はどうか、農人が土を愛するといふが、よく吟味すると大概の農人は世の悪風気に染まって居て、「利欲」のために土を愛して居るのである。これは私の言ひ過ぎであって、真に土を愛する人もあらうが、それは極めて少数の人たちであらう。それでも多少の欲望を満たす以外に何のよろこびもあるまいと思ふ、田畑に働いても、商人が御用ききに馳せ廻っても、工人が僅かのものを造るにも、事務室で仕事するにも「よろこび」を感じないやうでは堕落である。うるはしき心、真の「やまと心」を吾々は喚び戻さねばならぬ。それはまことに今や絶えざること縷の如くである。医者が患者に対する場合の如き、もとより然りである。がさがさした今の時代、原子爆弾、レーダー、DDTの出現等に驚愕して、誰も彼も血走った目で、今更らの如く自然科学の威力に跪拝しつつある今日、われわれのいふことは今日の場合、共感者同意者を得ることの困難なことは百も承知である。けれども私たちは確く信ずるところあって、守るべきを守り、進むべきところへ進んで行かねばならぬのである。
×    ×    ×
形有るものは形無きものの影である。形無きものは形有るものを動かす。それと同時に形有るものも形無きものを動かす。けれども形無きものが本でる。この形無きものといふ其の「無きもの」は有無の無ではない。これも昔から東洋では沢山の人が言ひ過ぎる位ゐに言うて来たことである。有無の無でないところの「亡きもの」は「無き如きもの」である。仏教で「空」といふのもそれである。空とは空無の空ではなく「空の如きもの」といふ意味であって、このことについても往年の此の「古道」紙上で幾回となく御相談した通りである。
形有るものは形無きものの影であるといふことが、今日の医人や患者に納得されたならば、今日の病人の病苦の凡そ半分は救はれるに相違ないのである。全快しない病人でも其の病苦の半分は救はれること確実であると信ずる。
 脇田政孝博士の書かれたものに次の一節がある。
  某病院での出来ごと、或朝某看護婦が歯痛のため洗面所の前で縫針でむし歯の掃除をして居た際婦長が通りかかった途端に、慌てて敬礼するため誤って手にもって居た針を呑んでしまったと感じたので大変である。急に咽喉が痛んで苦しくなり、耳鼻科へ行って看てもらったがよくわからぬのでレントゲン室へ行って検査して貰うと食道の中程に針らしい陰影があるといふのである。暫くすると腹部にチクチクと針で刺されるやうな痛みを感じ、用便に行ってみると血尿が出た。膀胱を刺して出血したものと判断して苦悶して寝込んでしまった。ところが暫くして、他の看護婦が駆けつけて「これ、あんたの針でせう、いま洗面所を掃除して居ると針が落ちて居た」と針を目前に出されると急に気分が変わり腹痛が治り、血尿も出なくなり、その後何ごともなく快活に働いた。
 これに似た実例は沢山にある。レントゲンで針らしい陰影を認めたのは心霊現象中の念写と同じ原理のもので針を呑んだといふPhobia(ホビア)によってさういふ現象を起こし、腹痛を起こし、血尿までも出るに至ったのであって、この話は支那の客杯弓影の話とも同様のものである。ところが、これは珍しい話でも何でもなく、実をいふと、今日の病気の約半分は大概これと同じ原理による現象であり、医師も患者も同様に狐に化かされて居るのとおなじである。これは医者を責めむべきではなく、今日の医学というものが、さういふ建前のもので、どこの病院にも慢性病患者が辛抱強く押し寄せて居るのである。
×     ×     ×
多年欧米で医学の研究を積まれ、帰朝後は病院長として令聞のあった某ドクトルが書かれたものによると、「私は仏教界に尊敬すべき多数の友人をもつ立場を恵まれて居るが、その中で学徳も高く人を愛すること強くつねに心労の絶間のない人で種々の慢性病をもって居る人が相当にある。これは心労と努力で神経えお疲らし、そのむすぼれが脳の中に出来て居て、それが胃腸や呼吸器や心臓や腎臓に影響して居るので注射や投薬は一時押へであるから今日の普通の医学医術をもってっしては根本的にはどうすることも出来ない」といふ意味のことを書いて居られる。
それはその筈でる。病気の大半は何等かの事情によって頭脳(あたま)の中に出来たホビヤ(病的観念)が指揮棒を振って何等かの縁にふれては種々の気管に異常を起こしてゐるものである。直接的には原坦山翁の力説せられたやうに脊髄液が上流して、これが結滞して病原となるといふやうな場合もあらうし、技術的には脊髄や腰部に霊的施術を行ふことが適当の場合も案外に多かりさうであるが、何といっても問題の根本は脳髄であって、そこに刻印せられたホビヤが最大の指揮者であることは疑う余地がない。これは私自身が何十年間も種々の病気の問屋をつづけて真剣に内観省察した体験からも同意せねばならぬところである。右に述べた某ドクトルの御意見のやうに、学徳高く、人を愛すること深く、つねに心労の絶えない人にもそれがあるので、必ずしも不道不義の心的作用のみがホビヤの原因でないのだから厄介千万である。
わかりやすく説明すると、頭脳の皮膚に近いところが意識界あ(皮質層)であって其の内部が無意識界あ8白質層)なのである。ホビヤは此の内部の無意識界に刻印せられた指頭大の点やうなもので、その頑張って居るところが難攻不落の無意識界なるが故に始末が悪いので、なかなか心機一転してホビヤを解消するやうにつとめても思ふやうにならぬのである。ホビヤを根本的に取り去る客観的事実をみるか(針を呑んだと感じた看護婦の話のやうに)または神道なり仏道なりキリスト教なりの祈祷によるか、古伝禁厭の如き神法道術によるか、音霊や静坐法の如き特殊の方法によるか、坦山翁の如く非常の定力によるかせねばならぬことになる。
さうでないならば何か特別の機会に恵まれるより外にホビヤを解消する方法はないのである。
そんなら祈祷とか神法道術とかお音霊法の如きものによってどうしてホビヤが消えて病気が快方に向かふかといふぃと、それは如何なる人間にも其の心身を守り病敵を防ぐところの守護神のやうなものが例外なしにあるからである。この守護神といふのは某々教などでいふやうな変なものでもなくイナリ大明神といふやうなものでもなく、V.M.N.大明神なのである。むかしから我国では「自然良能」と言い伝へて来たのが即ちそれだ。
 ところが此のV.M.N.大明神の御神徳は絶大であるが、又た一寸したことで岩戸がくれをせられるのである。さうすると種々の病気が起こるのでる。祈祷や神法道術や音霊法は「岩戸びらき」をやるために行はれるのである。岩戸の間から少し後光がさしそめたら大丈夫で、こんきよく修法すべきである。
×    ×    ×
 脳の白質層(無識界すなわち潜在意識界)にホビヤが出来ると普通の理屈くらゐでは解消せぬ。だから自然良能も働かなくなる。大概の病気がさうであるがいちじるしい例は婦人病の如きを挙げることが出来る。
婦人病にも種々あるけれど、その大半は慢性病で、ホビヤの作用によるものである。子宮や卵巣やラッパ管に実際に故障が現れて、いろいろの苦しみを受けて居るのだから、それが脳髄中のホビヤから来て居ることに気がつかない。けれどもそれは姿勢が悪くて丹田の力が抜けた結果か仕事の事情で逆上状態が多い生活をやって居るか、または家庭内に他人に語れない葛藤があるか、ひそかに愠(いかり)を含むか不平不満があるか嫉妬があるか、兎に角心のうるはしさを保つことが出来なくて序々にホビヤを
結晶したものが多く、或いは何か急激の事故のために心身の調和を破られてホビヤを生じたものもある。そんなのは子宮の洗滌や切開施術を受けても薬を浴びるほど服(の)んでも絶対に全快しない。一時すこしよくなっても又悪くなり、病院通ひがつづくのでる。こんな人は先づ心の岩戸びらきについて考へられねばならぬ。ひそかに内訌があるならば心から相手に詫びるとかざんげするとか、愠を解き相手をゆるすとか、感謝と悦びとをすべてのものに持ち得るやうにせねばならぬ。姿勢が悪ければ姿勢を直す。座禅法でも静坐法でも其の人の因縁のある方法で、やりよい方法により、むつかしく考えないことである。そして音霊法でも根気よく修する。或ひは勝縁ある人は神祈仏天に祈禱するもよし、陰徳善行を積むことに心がけるもよく、神法道術によって岩戸びらきの手だすけをして貰ふもよろしい。さうすればV.M.N.先生が働き出すし、ホビヤは消えるなといっても消えて行くのである。私は他人に対してこんなことを説く資格がなく、自分自身が病弱であるから成るべくこんな問題に言ひ及ぼすことを遠慮して来たけれど、いかなる因縁か斯かる問題を他人に紹介するだけは忠実に紹介せねばならぬ立場に立たされて何十年kを過ごして来た。現に我が天行居の同志の中には音霊法や其他の神法道術によって幾百人といふ病者を救って来て居られる人が各方面にあり、中には実に頭のさがるやうな驚くべき成績を挙げて居られる人もあるのである。私自身が病弱なわけについては少し申したいこともあるが自己弁護になるから差控える。尚ほ婦人病について一言したが、実は婦人病に限ったことでないので有らゆる病気の六割までが同じことである。同じようなことを書きつらねるのが嫌ひだから一例を挙げて他を類推してただくことにして居り、これは「ものくさ」な私が何時(いつ)もやる手であるから、そのつもりで気を利かして読んでいただきたい。

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 ホビヤと反対の性質をもつもの、やまと心、うるはしき心の「たね」ともいふべきものが、やはり脳の白質層(無識界)に植えゑつけられることもある。これは固よりありがたいことである。偉人や霊地に親しく接する機会を得るとか、何かのインスピレーションに偶然ぶつかるとか、勝縁あって神仙界に血縁するとかいふやうな場合にさういうことになることがあるものである。或善良な印象な受けたから忘れまいと意識するやうにつとめても、それは得られるものでない。何しろ「たね」の蒔かれる畑が意識界でなく無識界だからなかなか、私如きものの思ふやうになならぬものである。思ふやうにはならないけれど、さういふ機会に接するやうな手だては出来ないわけのものでもない。それにつけても私は全国の同志諸君が重ね重ね石城山に登られることを希望してやまない。今は交通事情が甚しく困難だが、すこしくつろいだならば旧参の同志諸君も重ねて修斎会に参加せられ、私情私念を去って、虚心坦懐、霊山の神気を呼吸せられることがいろいろの意味に於いて望ましいと思うふ。
 どうしても石城山に来られない立場の人もあるであらう。さういふ人は良い本を精読せられることである。神道の本でも仏典でもキリスト教の本でも支那の古典でもいいが、これこそ立派なもので自分に縁のあるものだと信ぜられるところのものを暗記せられるほど幾十回でも読みつづけられることである。それによって脳の白質層の畑に良い「たね」が蒔かれることもあるものである。毎日の日課のやうにして良い歌を幾十回も誦せられることも一方法である。本居先生の「しきしまのやまと心を人とはば朝日に匂う山さくら花」のごときは良い歌である。ただ二回や三回くちずさむで、うむ、いいなと思はれる位ゐでは何にもならぬので、静かに幾十回も念唱又は低音に読みつつ静坐して閉目して居ると、朝日に匂う山さくら花の光景が炳現するやうな気がしてくるもので、それを毎日つづけて居ると、何とも云へぬ、うるはしい感慨に包まれるやうになり、さうなれば脳の白質層に徐々ではあるが「うるはしき心」のたねが植ゑつけられることになる。うるはしき心のたねがほのかにも光りを放つやうになると、同居して居た先客のホビヤ氏は次第に通力を失ふやうになって行くのである。

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 わが国民の一人々々が明るい心、うるはしき心になれば我が国土も「うるはしき国土」となるのである。けれども今日としては、実は此れは無理な希望であらう。去る八月一五日以来、わが国民は暗黒の谷底へ投げ込まれた気持ちであり、例外なしに誰もそのホビヤを脳裏に灼きつけられて居るし、その後も引きつづき朗(ほがら)かな音づれは我が国民の耳から絶縁されてしまった形である。気を取り直して新国家の建設へ踏み出せと、例によって勇ましいかけ声はあるにはあるが、何となくその声に底力がなく、又、正直なところ、一般国民もまだ新しい平和国家の建設へ勇ましく立ちあがるといふところまで行って居らぬ。もっとも千万なことである。あおの気もちは正直に認識することである。
 しかし、いつまでもそれであってはならぬ。或る意味に於いて、戦時以上の大奮発を要するときである。むろん、吾等の旅は長い旅程が想像せられ、しかもそれは決して愉しい旅でないこと余りにも明かだが、それでも、旅立ちの用意をせねばならぬ今日である。
外電の報ずるが如く、今や日本は四等国に転落したのであらう。今後更に有形無形いろいろの不快なことや困難なことがらうと思うが、しかし吾々は卑屈な考へを起こしてはならぬ。大戦に於ても日本はワキでなくシテであったが今後の世界に対してもシテの立場を守って行かねばならぬ。今更ら説明するまでもなく日本は好戦国ではなかった。明治三十七八年戦役でも、どうかして開戦を避けようと遊ばされて明治天皇が如何に宸襟を悩まし給ひしかは確実なる記録の存するところでる。けれども、いかなる場合でも日本はシテ役の立場に立たせられた。よかれあしかれシテとしての天分の家柄で、それは正邪とか是非とかいふこととは別の問題で、まあ天分とでもいふの外はなかろう。
 シテが重いとか上位とか、ワキが軽いとか下位とかいふわけのものではない。シテにはシテの天分があり、ワキにはワキの天分があるのである。これは個人でも団体でもさういふことがあるので、シテとワキとの調和によって物ごとは組み合わせが出来て行くのである。家庭に於てもさうで、大概の家では、主人がシテ役で主婦がワキ役である。けれども家庭内のそれそれの方面で又たシテとワキとがあるもので、だいどころのことなどや衣料食料に関することなどは主婦がシテとなり主人がワキ役をつとめるのが普通のやうである。われわれの二本の手にしても大概の場合は右手がシテで左手がワキをつとめるけれど、その反対の場合もある。しかし右手がシテか左手がシテかといへば右手がシテであり、それが天分である。
堀先生からの又た聞きの話であるが、天竜寺の敵水和尚は「なんぼう学問があっても徳があっても禅が出来て居ても一生貧乏寺で暮さねばならぬものも居るし、あまり感心いたしかねる男でも管長さんになったり大寺に据(すわ)ったりするものもある、それはさうした因縁のもので、どうにもならぬものじゃ」と云って居られたさうであるが、それも天分とでも申すのであらう。これも禅家に限った話でもあるまいと思う。

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芝居でも同じことで、尾上松助といふ人はワキ役として名優であった。けれどもワキ役は如何なる場合でもワキ役であった。人気に乗じてシテに廻るやうなことはやらなかった。下手くそでも主役になる人は其の柄があった。そのわけについて松助が語ったことが往年の演芸雑誌に書かれてゐたことがあった。さすが老優の名言だと思った。
日本国が世界の文化、平和に専念する方向に進むのみとなったことは、卑近な感情を殺して嵩大な宗教的見地から達観すると、まことにくしびなる大神界の大神策と考えられるのであえうが、それにしても、それはシテとしての家柄を忘れず、卑屈な思ひをせず、清明の美感に撤して、真の「やまと心」を守り抜いて進むことが要望せられる。これからさき、眼からも耳からも種々のわれらの脳髄に進攻するために」襲来することは必然の勢ひであるが、その旋風の中に、その怒濤の中に、真の大和心の「うるはしき心」をつつましく守って行くことが何よりも肝要で、たとひ其の旅程の同行者の数は少なくとも、また其の長い旅が如何に退屈なものであるにもせよ、必ず天の時節を待って、守るべきものを守って行かねばならぬのでる。南朝が破れ、室町の添加がつづく長い年月の間、南朝に有利な文献は破棄せられ、足利氏に有利なものだけが根気よく編述せられたけれども、二百年あまり経過してから、そろそろどこからともなく歴史の真理は光り出して来たのである。春夏秋冬は此の地球の運命を語るもので、冬ばかりつづくものでなく、やがては又た水がぬるみ、名もなき路傍の草も芽を吹き、枯木のやうに見られた吉野の山桜も匂やかに咲きわたるときも必ず来るもので、四等国の卑屈な観念で、媚態に日も足らずとするやうな人がどんなに多くて景気が好からうとも、われらは宗教的な真理たる「やまと心」の真の反省に精進し、浄潔なる「うるはしき心」を基本として、あらゆる文化の面に霊的努力をつづけ、シテとしての日本の自信力を失ってはならぬのである。形あるものは形無きものの影である。形無きものの精進努力は誰からも其の労力を認められず、御礼も言うはれず、場合によっては嘲笑なり攻撃なり圧迫なりを受けることさへあるが、さうした愉しからざる旅に、われらは石城山神界の使徒として旅立ち、悲願を同じうする同行者とともに、これから長い忍苦の旅をつづけようとするのである。
 忘れもせぬ二十五年前、大正九年の初夏五月十六日、羅馬(ローマ)に於いて昔のオルレアンの牧女ジャンダークの大慰霊祭が行われた。彼女の死後五百年にして世界各地から集まった高僧顕官の前で、盛大な儀式が行われたのである。当日はロンドンのウエストミンスターの大本山でもパリのノートルダムでも同様盛大に執行され、米国でもニューヨークで二万の会衆が大学の校庭で祝典を行ひ、ハドソン河に碇泊中のアメリカ軍艦からは二十一発の礼砲が放たれたのである。五百年前に異端者として魔女として焚殺されたオルレアンの少女は、たちまち国際的の大立者となったのである。もっとも彼女を崇敬する運動は大正九年よりも更に五十年ばかり前から一部にあるにはあった。ジャァンの名を三べん唱へると奇跡的に病気が治るといふ信仰もフランスの田舎では行はれて居たが、大正九年にいよいよ法王が公然とキャノニゼーションを行ふといふ歴史的な大事件が生まれたのである。春夏秋冬は世界のどこにもあらはれる現象である。五百年前に妖術の巫女として彼女を焚刑に処したものだけが正しいのではなかった。
大正九年の晩春から夏にかけて、私は北陸の行脚(あんぎゃ)から会津方面などあるいて居た。会津若松ではトップシェル堂にのぼり、公園の茶店で綺麗な娘さんが運んで来た大福餅を同行の車夫君と二人で冗談を言ひながら平らげるまでは天下太平であったが、それまで日本晴であったのに公園を出るや一天俄かに掻き曇り、文字通りの土砂降りとなり、人力車も立ちすくむ折柄、七八間ばかりのところへ轟雷が落下し、私も気死せんとして、脳髄の白質層の中味が入れ替わった如く感じた。大正九年の夏は、私にとって忘れられぬものとなった。

ー昭和二十年九月二十日記ー

2012年12月28日金曜日

4-純粋無垢のもの


 芭蕉の言葉に「心の色うるはしからざれば外に言葉を工む。」といふのがあるが、これが芭蕉精神の根本である。俳諧の道だけでなく、これは我国あらゆる文学、否な有らゆる芸術の基本精神であるといへる。芸術だけでなく我国の「すべてのもの」の基本であり、それは「純粋無垢のもの」の追求である。
「み光美はしき女神」をたたへまつるといふことが、我国上代の中枢信仰であった。それは記紀を始め、権威ある古代伝承が一様に伝えて居るところである。「み光美はしき女神」をたたへまつる心はすなはち「うるはしき心」であるべきである。その「うるはしきこころ」は純粋無垢のものであった。それを清明心とも平心とも古典は記録して来たのである。その「うるはしき心」を「やまと心」として表現したのは平安時代の女流文学者であった。
その「うるはしき心」は「純粋無垢のもの」であるから言葉を工みて表現することが出来ないのである。本居翁は「朝日に匂ふ山さくら花」と歌った。それを養子の大平翁は「うるはしきよしなり」と注釈した。真の「やまと心」といふものはそれである。この純粋無垢のものを表現するために、又は追求するために、日本の芸術も宗教も精進して来たのである。書画の道も、茶や花の道も、音曲や踊りの道も、ひとすぢにそれを守り、或ひはそれを追求して来た。むろん幾分の例外とか邪道とかいふべきものもあったが、すべての流れの本流はそれであった。それは言葉や技法を工みて至ることの出来ぬ霊境であった。しかし芸術に「工み」を取り除いては成り立たないので、工みを錬磨して「工みなき工み」の美へと追求して行ったのである。宗教も芸術も「道を忘れて道を履(ふ)む」ところを目ざして進んだのである。印度思想と支那古代の老荘思想とによって洗練された禅が輸入されると、それは、たまたま我国の純粋無垢のもの、うるはしきもの、「工み無き工み」と合符するところがあったので、この外来の禅は直ちに「日本の禅」となり、体型づけられた推進力として鎌倉以後の日本文化の指導力となったのである。

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 これを絵画の方面にみても、日本画の線も色も構図も特異の発展をして来たのであって、支那の描法を学んだけれど、次第に直感的な「ひらき」が出来て来た。書道の如きも大観すると支那のものに及ばないと思われるけれど、流麗な線と美と匂いと「さび」との追求は独特な草仮名の書風を生んだ。
 日本画に於いては、混色や中間色を避けて、単純な二三種の色で万象を写しだした。それは「物の色」でなくして「物の心の色」を表現せんとする霊的努力であっった。
 更らに日本画の大きな特色をいふと、謂わゆる其の「余白」の表現力である。西洋画のやうに何処も此処も塗りつぶすやうなことがないのみならず、色もなく形もなき無限の余白によって、純粋無垢の美を現はさうとした。それは単なる「空白」ではなく、それによって画を活かしもし殺しもした。単に幽玄とか余韻とかをそれによって持たせるといふ程度のものでなく、余白のありかたに日本画家の大きな手腕を要し、苦心を要し、技法をさへも要したといへる。つまり日本画は描くところだけが絵画ではなく、描かぬところは魂ひをもって描いたので、それを鑑識して貰えぬなら、日本画といふものは其の真の美を半分しか鑑賞されないことになる。しかし、或ひは、それでいいのかも知れぬ。人間に対して価値のすべてを評価されないところに、鑑識を神さまに要求する意味もあるであらう。芸術といふものは元来さうしたものであるかも知れない。誰にでも価値のすべてを評価し得られるやうなものは芸術とは申されないかも知れない。余白は決して描き残されたところでもなく、描き足らぬところでもない。謝赫も気韻生動をもって画の第一義であるといった位ゐで支那に於いても古聖は余白の大切なことをいったけれど、中世以後それを真に解し得る霊的鑑賞力を欠き、せっかくの古聖の残した余白さえ、みだりに蔵印を押捺したり賛辞などを数多く書き込んだりして、それを得意とするほどになって了った。今から十数年前伊太利で日本美術の展覧会を開いたときに、横山大観氏が行って、日本画のもつ大きな特性として余白のことを説いた。その時に伊太利の新聞や雑誌は特に「余白」といふ漢字を活字に鋳造して、その紹介や批評の文章の中に入れたことがあったが、それが果たしてよく真に理解されたとも思へないのである。かって文学博士斎藤隆三氏も「神韻を内に蔵して活きた精神を生命とする日本画の真骨頭など決して他国民に会得され得べきものではない。」といふ結論を発表されたこともある。どうもそれはさうかも知れぬ。すぐれた外国人には日本画の「余白」もわかり、線条もわかり、水墨もわかるかも知れんが、なかなかむつかしいことでないかと思はれる。二十年ばかり前にフランスで俳諧が流行し、すごい勢ひであったが、俳諧の精神を掴むことが出来ず其の形態のみを模倣して居るので、どうにも指導の方法がないといふことを、そのころフランスから帰って来た文学者が或る雑誌に意見を発表して嘆息して居たがそれはそうであらうと思う。俳句は此の数年前来また一種の理由からして我国の人々の間にも盛んになったが、しかい俳諧の心から脱線して行ったものが多いことも事実である。日本人だからといって、多くの人に日本の芸術が真に会得されるといふわけには行かない。それを他国の人々に会得させるといふことは、よほどの難事業であらう。文化的に世界平和のためにつくすと申しても、日本から世界へ贈らうとするものが、他国の人々に真に得とくされにくいものであるならば、じっさい困難なしごとである。しかし、それにしても守るべき芸術は守って行って、その通俗化や堕落を避けて他国の人々に会得される日を待たねばならぬ。会得されやすいやうに日本芸術を通俗化したり、ゆがめて行ったり、まじりけを加えたりして行くことは、真に世界の文化に貢献するといふ誠実の道であるまい。
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 音楽といふやうな方面から見ても、同じことになると思ふ。アリストテレスは「政治哲学」の中で、「いい音楽は精神を清浄にする。」と云ひ、「心を清める力のある音楽は人々に無邪気の愉悦を与へる。」とも云って居るが、それは世界共通の真理であらう。我国に於ても其の音楽の大部分は心神慮に適ふもので、神道と神楽の関係は申すまでもなく、雅楽、能楽、尺八楽、箏曲、琵琶より義太夫、長唄、民謡にいたるまで、どこかに「純粋無垢のもの」を追求し、うるはしき心に格合させる力を持たぬものはない。雅楽や能楽の貴族的なものだけが魂を清浄にする力があるのではない。夕陽のうすずく浅間の麓に馬子歌を聴き、北海の荒浪の轟きの間に追分節を聴き、行く秋の南部の平野に牛追ひ唄を聴き、秋田の山中でこだまする山唄を聴くことは、木曽で木曽踊を、伊那の峡谷で伊那踊を、福井の東尋坊に海女の三国踊を、佐渡の相川におけさ踊を見るときと、同じ心のしめりと涙ぐましさを感ぜしめずには置かないが、それは「純粋無垢のもの」に触れるからである。それはすこし大袈裟にいへば、凡人を聖化するほどの力があるのである。しかしそれは、日本の音楽だけのことでなく、西洋音楽にも無論立派な芸術性がある。しかも組織立った芸術として吾等の尊敬に値するものがある。バッハのフーグや、カンタータ、ヘンデルのオラトリオ、モーツァルトの室内楽、ベートーヴェンの交響楽、シューベルトの歌謡曲、ワグネルの楽劇、ショパンのピアノ、ヴュータンのヴァイオリン等々、それはとりどりに日本人の愛着を感ぜしめるものではある。けれども、それには日本の神が宿って居ない。日本人を純粋無垢のものへつなぐ力が乏しい。もっとも今日の青年子女の中には、斯ういふ風にいふことを却って奇異に感ずるものが多からう。音階の簡単な日本の音曲には吾等青年は何の魅力も感じない。西洋音楽でなければ音楽とは云へないといふ気持ちが偽らざるところであらう。これは、すでに日本人から離れつつある日本人であり、謝った教育の影響もあらう。さればこそ比島や支那大陸に於いて「日本の道」をけがすやうなこともやらかしたのであらう。
音楽に関する学問の権威、田辺尚雄氏は「西洋音楽はダイヤモンドを磨いて光らせたやうなものであるが、之に反して日本音楽は光って居る金をいぶして殊更らに曇らせたやうなものである、さびとか渋味とかいふものもそれである、日本音楽は殊更らに和声を隠して表面にあらはさず、旋律をもって楽想を描き出して其の中に深奥の幽玄を想像せしめんとして居る、これは日本人の頭脳の優秀性を示して居る。外国人は旋律の上に和声の色までベタ一面に塗りつけなければ感じ得られないやうなところの想像を、日本人は単に旋律の微妙なる線のみによって充分感じて居るからである。」といって居られる。近ごろの多くの青年は、その魂ひの修養がなく、あたかも「いぶし金」をみて、それを煤けた、きたないものとみる以上の霊感的知性が欠けて来た。此の霊感的知性が欠けると、比島戦線や支那大陸で、あんな非日本人的行動を敢えてして日本の歴史を汚すに至るのだ。われわれは日本人の、霊感的知性、真の大和心、うるはしき心、純粋無垢のものの保衛、復活、育成こそ、何よりのことと考えて居るのである。

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 アウグスティヌスも「歌われる内容よりも歌ふ音声の魅力を尊重することは正に音楽の堕落である。」と云って居る。これは如何にも日本の音楽の立場から宣言したかの如くにさへ聴こえる。その「歌はれる内容」といふのは、その歌詞とか、その歌詞が描いた事件とかいふ形骸的なものを意味せず、何といっていいか、その歌はれる叡智的な気分とでもいふべきものだらうがその表現こそ生命であらう。ただ音声なり楽器なりの技巧が如何に手の込んだものに発達しても、それは楽譜にすれば立派なものかも知れんが、音楽の堕落といふべきであらう。その「歌われる内容」が生命があるなら、江戸末期に発達した花柳音楽の如きものでさえも真の音楽としての価値をみとめる部分があるかも知れない。
 音楽に限らず、日本の芸道は、どの道にしても「いのち」をかけた真面目さをもって精進せられた。いのちがけで純粋無垢のものが追求せられたのである。芝居でも同じことで、名優と称されるやうな人は舞台に立ったときも自宅に於ける生活も別々のものでなかったので禅でいふ寤寐恆一の境を離れなかったものである。鬼貫は「誠の外に俳諧なし。」といったが、その「まこと」の心、真の「やまと心」が有らゆる芸道の本となったのである。平素は野球をやったり銃猟に行ったりして、舞台に出れば女形をつとめるといふやうな器用な真似は本当には出来ないことで、日常生活から女になり切って居て、それで始めて、舞台で女にもなれたのであって、誠の外に芝居無しであった。神道者をもって任ずるほどのものが、平素に於いて物を愛せず、「もののあはれ」を感ぜず、抜苦与楽の心がけに相応せずして、初穂料を貰って御祈禱するときだけ、その格好をするやうなことでは問題にならぬと思われるのである。
 女形の名優は女役を忘れぬために自宅に於ても針しごとをしたといふほどである。岩井半四朗の如きは、銭湯も女湯へ行ったもので、近所の内儀さんたちは、すぐに押しかけ、何は何でも大和屋さんにと、吾さきに小桶に湯を汲んでやったりしたが、半四朗は愛想よく受け流し、いつも立膝でお行儀よく糠袋を使い、さっさと洗って帰って行くが、どうみても男とは見えず、それは身体の構へと、立膝にした片膝の置き方と腰の据ゑ方のためだといふ。故人尾上菊次郎はえらい女形で、自分より年下の六代目尾上菊五郎の女房役として死ぬまで自分の年を明かさなかったといはれる。自分が相手より年上だといふことが判ったら、自分の芸の艶が感応しなくなるだらうといふ用意からである。平生でも六代目は、自分のことを兄さん兄さんと呼んでゐたといはれる。だから菊次郎が死んだとき、六代目は、自分の直侍で三千歳をつとめてゐた菊次郎と二人立ちの大写真の額の前で、ぼろぼろ涙を流し、「おい、なぜ死んだんだ、お前が死んだら、もう直次郎って役は、おいらにゃ出来ねえんだぜ。」と泣きじゃくり、そばに居合せた人たちも胸を打たれて慰める言葉もなかったといふ。舞台の上で、こしらへた芸で、人気を売らうとする俳優などは愧死すべき芸道の悲話であると思ふがそこに真の「純粋無垢のもの」を追求する日本の姿があると思ふ。

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 純粋無垢のものは次元を越えて霊界とも交通する。それは音楽であれ書画であれ、劇や舞踊の如きであれ、農芸や工芸の如きものでも其の至所は同様であり、強いて言えば神法道術の如きも決してそれらと没交渉のものではないのである。
 松江市の中学の先生をしていたラフカジォ・ハーン(小泉八雲)といふ英国生まれの文豪が英文で書いたものに「耳無し法一」の話があるから、それを一寸申し上げておく。
 七百年前、壇ノ浦に於ける平家一門の没落にちなみて、後生その沿岸には種々の霊異談があるが、これもその一つ、今から三百年前に赤馬ヶ関(下関市)に法一 といふ盲人の琵琶の名人が居て、その秘曲とする壇浦の曲を奏するときは鬼神をも泣かせたといふが、その附近に阿弥陀寺といふ寺があり、そこの和尚がこの法一を保護し、寺院内の一室に住ませてゐた。
 ある夏の夜、法一は和尚の帰りを待って居たが法要のためか夜半になっても和尚は帰らなかった。そのとき突然武士らしいものが一人やって来て、法一へ申すには、何も恐れるに及ばぬ、自分はさる御方の使者だ、我が君は高貴の御方であるが、壇浦の古戦場を見物のために御忍びで此の地へ成らせられたのである、かねて其方の妙技をきこしめされ、一曲を所望あそばすので自分と共に同道せよ、とのことで、法一は武士に手を引かれてついて行った。どことも知れず立派な御屋敷らしいところに着き、大門を開かせ大玄関を入り、大官、女御の集会らしき大広間に案内された。そこで仰せのままに壇浦の一曲を弾奏し、かくべつな賞讃にあずかり、引きさがるときに、老女と覚しき人の申さるるに「我が君様のおよろこび斜めならず、今後六日間引きつづき参殿せよ、最後の日に御褒美を取らせる、だが、今晩のこと一切訂無用であるぞ。」とのことで、以前の武士に送られて阿弥陀寺に帰った。その翌晩も同様であったが、寺に帰ってから和尚から何処へ行ったかと詰問された。しかし法一は一切他言しなかった。その翌晩も又た出て行ったので、和尚はひそかにあとから寺男を尾行させたが法一は非常に早足で姿を見失ってしまった。たづねあぐんで帰るとき、阿弥陀寺の墓地のあたりを通ると、法一が雨に濡れて、苔蒸した平家戦没者の供養塔の前で、一心に琵琶を抱えて居るのを見、法一さん法一さんと呼んでも返事がなく肩を叩いて耳もとで呼び立てたので漸く正気づいた様子なので連れ戻って、ねんごろに問ひ糺すと、つつみきれず第一夜からのことを白状した。和尚は驚いて、このままにしておくと七日目に生命を取られるにきまって居る。この難を免かれる工夫をしてやらねばと、法一を裸体にして弟子どもに手伝わせ、からだ中すきまなく般若心経を書きつけた。そして和尚は法一に対して「今夜も武士が迎えにくるだろう、何と呼ばれても返事をしてはならぬ、黙って居て声を出すな、一心に坐禅をして居れ。」と申しつけた。
 やがて件の武士が来て、あちこちと法一の姿をさがして居るらしく、やがて琵琶を見つけて、此処に居るじゃないか、と声をかけたが法一は黙り込んで居た。武士は、これでは復命が出来ないとつぶやいてゐたが、ふと法一の耳をみつけて、これを証拠に持ち帰らむと立ち去った。法一は耳もとがひやりとして、生ぬるいものが落ちてきたが、今こそ大事なときと黙座をつづけて居た。夜が明けて和尚が来てみると、法一の耳がない。よくしらべてみると、心経を書きつけるときに顔の方は弟子にまかせておいたが耳へは字を書いて居なかったことがわかった。それで耳だけむしり取られたのを和尚は残念がった。しかしその後は何の奇異なこともなく、法一は耳無し法一と綽名されて琵琶の名声は一層たかくなり、永く安楽に世を送ったといふ話。
 この現象についての霊的説明は私が書かなくても同士諸君がそれそれの見解を持ち合わせて居られることと思ふから差控へるが、音曲も純粋無垢の境に出入すれば、エーテル感度の次元を越えて、幽顕に通ずるといふことを今更の如く一言しておく。

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 心の色うるはしかざれば外に言葉を工(たく)むといふ芭蕉の見つめるものは、俳諧や歌だけのことでない。絵画における余白の如く、又た日本音曲における「間」のごとく、たくまざる芸道の至境である。我国の音曲に於いては「間」といふことが極めて大切で、それによって音曲の生命がつながるものとされ、余情の神韻が現はれるものとされてゐる。これは何か特殊の専門的な教養がなければ、その感応がないものかといふとさうではなく、この芸道の精神は相当に大衆化されて居る面もあり、その面でも、誰もが感応するやうになって居るのである。
 高田実といふ役者は、何もしないことに於てえらい芸をもってゐた。「己が罪」の芝居で彼は漁師作兵衛をやり、大当りをとったことがある。舞台は平塚の海岸、正弘少年が溺れかけてゐるのを玉太郎が助けようとしてこれも死にかける。知らせを受けて玉太郎の里親たる作兵衛は一散に馳せつけて来て子供たちの世話をやく、そこへ二人の母なる環が駆けつけて来て、子供の屍骸にとりすがってワーッと泣き崩れる。そのときまで高田の作兵衛は殆ど狂気のやうに子供たちの介抱をしたり、漁師仲間にいろいろ用事を忙しく云ひつけたり、ひとり舞台で働いてゐたのが、環が出るとともに一切の仕事をやめ、うしろ向きになり、ぼんやり棒立ちに突ッ立ってしまふので、その突ッ立ったうしろ姿が、どうみても本当に泣いてゐるようで、舞台の正面で大愁嘆に落ちてゐる環よりも、見物は棒立ちのうしろ向きの何もしない高田のために泣かされるのである。
 東洋芸術の神髄として歎称されてゐる能楽にしても、日本画の「余白」を活かす芸術と同じ心のもので、ここでは音と言葉のリズムの上の余白である。音の旋律を極度に省略して、沈黙を活かすことに力をそそいでゐるのである。日本人は沈黙によってのみ、真の芸道の要素が表現されることを昔から神悟して居るのである。茶人が陶器を愛することはかくべつで、僅か十字か二十字かの文字通りの断簡零墨でも、いのちがけで宝貴珍玩することは外国人の理解しがたいものであるが、日本人の茶器に対する馬鹿げたほどの鑑賞態度は、たうていよその国の人には会得されないもにである。珠光の「わら家に名馬をつなぎたるがよし。」といふ世界であって、ただ美術品に対するとか、骨董品に対するとかいふやうな境地に低徊して居るのでなく、ずっと高い次元に於ける精神活動である。

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 たくみなき心をもって神界の実相に直面することと、純粋無垢のものを追求することが「石城山の宗教」である。これは理屈や説教だけでは表現することも、看取することも出来ない。やはり何度でも「工みなき心」をもって石城山に登って貰ひ、この霊境で、みっしりと音霊法でも修行して貰はぬことには、どうにも説明の方法がないのであらう。

ー昭和二十年十月二日記ー

2012年12月27日木曜日

5-神の象徴


 純粋無垢のもの、それは空間に於ても時間に於ても際限のないものである。第一義的にいふところの神がそれである。それは際限のない力であり無量の功徳であり不測の慈悲であり愛であり、智慧であり、美はしさである。けれども強いて言へば性格のないものである。限られた人間の五官によって把握し得る性格のないもので、無性格がその本当の相である。普通の意味における無性格ではないが、局限された五官の能力しかない人間からいへば、仮にさう見ゆるもので「無性格の状態にあるもの」である。それでは認識の対象にも信仰の目標にもなり難いから、神は、「むすびかため」のまにまにそれそれの因縁ある国土、因縁ある人々に象徴を示現せられて人間を神につながれたのである。人間はその象徴を賛嘆し、象徴に帰依して象徴の奥の神を忘れがちである。阿弥陀も観音も不動も、それは象徴である。ところが阿弥陀を信仰するものが、不動も観音も外道のやうに思ふ癖がつき始めると、そねみ、さげすみ、にくしみ、たかぶりの心さえ生ずることがある。これは象徴の奥の神を忘れた為めである。日本では幸ひにかくべつな宗教戦争といふほどのものはなくて済んで来たけれど、外国には残忍なる宗教戦争の歴史がある。人類は再びさうした愚かなことをくり返してはならぬのである。けれども又、象徴そのものを外にして神はないともいへるのである。それが宗教的信念における特殊の論理である。象徴は人間が創作したものといふ論者があるけれどーたとへば量子論のプランクの如きー象徴は人間が作った場合と神の示現による場合とがある。そしてその何れの場合でも、その象徴を外にして神はないといふことにもなる。花をみるとき、花の外に人生も宇宙もないといふ直感の理念からさういへるのである。或ひは却って誤解を惹きやすい問題を提供することになるかも知れんが、一心専念に天満宮を信仰する人にとっては、天満宮が宗教的畏敬心の一切の対象となるのである。それ位ゐでないと、なかなか実際の「天満宮」を拝むことが出来ず、その神徳をかがふることもむつかしいとさへ云へるのである。その場合、その人にとっては、天満宮は千百年ばかり前に此の世で飯を喰ひ、悲嘆もせられ、怒りも泣きもせられたであらうところの菅原道真公といふ歴史上の人物の霊を拝んで居るといふやうな境地ではなく、道真公に無関係ではないけれど、それとは異なるところの「ありがたい神さま」があるのであって、天満宮といふ象徴そのものが広大な神徳の神である。これを低級な宗教といふことは出来ない。複雑な哲学的思索を伴はぬ宗教は低級であるとは云えない。それこそ人間が勝手な理屈でいふことである。浄土真宗の信仰にしても、すぐれた経論の沢山な講釈があるが、それはむしろ路傍のしごとであって、ただ阿弥陀如来を専念信仰して一疑無きものが尊いので、一文不知の尼入道といへども信仰が致純蕪雑であれば、それが百点である。キリスト教の如きも其の神学は多岐であり微細をつくして居るが、いよいよの其の信仰の尊さは、聖書の中の、僅か数句しか記憶し得ないやうな頭脳の所有者の中にも見出すことが出来るであらう。

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 象徴によって神に通ずるといふことは、自己が象徴になり、自己が神になるといふことである。その場合すでに自己といふものも無くなって居らねばならぬのである。無念無想で神前で拍手する。あのときのそれである。これは謂はゆる宗教に限ったことでなく、いかなる芸道に於ても同様である。しひてさうならうとするのではなく、おのづからさうなるのである。
 純粋無垢のものが古来我国に存在した。それは多くは何の象徴をも要求せず、やまとしまねに温存されて長い歳月を経たのであるが、やがて所謂外来文化が移入せられるやうになると、その外来の象徴を更らに純度の高いものへ持ち上げずにはおかなかった。仮に音楽の方面からみてもさうである。
 笙といふ楽器は元来インドの先住民族の間に起り、南支那で発達し、奈良朝の初めに我国に入ったのであるが、支那輸入のものが吹口のところに長い嘴が挿入してあることは正倉院の御物や支那の古図をみてもわかる。嘴があれば息の使ひ方が頗る単純で、平安朝以後の雅楽でやるやうな息使ひのむつかしさはない。わが国の笙は吹口が極めて短小で、殆ど直接に笙を吹いて居るやうな感じのもので、その「息使ひ」と「手移り」とをもって、わが吹笙の技巧の最高とせられ、伝神の秘技を要する次第である。近代支那の笙は嘴は入れてないが吹口がラッパのやうに突出してゐて吹奏は容易であるが高雅な音は出ないのである。尚ほ此のことに関聯して、約千年の歴史ある旧社家に伝はる秘巻があって、これは大正八年の秋から大正十二年の春まで宮内省主殿寮にあづけられ、御用済みになって下げられたものを私は持って居るが、このことはまだ申し上げにくい。
 篳篥(ひちりき)は西アジアに発生し、天山南路から支那を経て我国に入ったが、中央アジアや支那における奏法は単純で、支那蕎麦のチャルメラを聴くのと異らないさうである。我国における其の奏法は、まったく神仙界の域に迫るものがあり、それが為めに其の名手の吹奏によって種々の霊異談さへ伝へられて居るほどで、またその構造の立派さも、笙とともに人間世界を荘厳するものである。
 尺八は古代エジプトの廬管の縦笛に期限し、アフガニスタンで竹管となり、西域から支那を経て奈良時代に我国に入ったが、あまり発達しなかったやうで、時代を経てから室町時代虚無僧とともに漸く発達する機運に乗じた。支那では細い竹で哀音を出すだけだが、我国では太い根つきの竹で、豪壮の音と哀切な音とを自在に出し、その吹奏の技法は精妙を極めたものとなり、一本の竹が千変万化の音色を出すことについて西洋の人も此を怪しむほどに驚嘆するに至ったのである。
 十三絃の箏は近代支那では殆ど亡び、十二絃のものは西支那で現に俗楽器として用ひられて居るが幼稚なもので問題にならぬ。我国では十三絃の箏が雅楽として保存されて居るのみならず、その独奏及び伴奏としての用法は近代に至り筑紫流以来独自の境地をひらき、元禄以後の生田流、山田流は更に驚くべき発達を示し、近くは宮城道雄氏や久本玄智氏の如き天才によって、新天新地を打開したといふほどの発達をみるに至った。朝鮮の十二絃箏たる伽倻琴も我が箏曲に雁行し得るといふが、それは外面的の技巧で、内面的の楽想が我に及ばないと専門家は評して居る。

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 三絃は西アジアからエジプトに入り、ペルシャに入り、モハメット教とともに西蔵、印度の境辺に入り、羊皮が蛇皮となり、四川省から揚子江を下って江蘇浙江あたりで行はれ、琉球の貿易船で我が堺港にもたらされ、その間いくぶん形状も変わり、蛇が猫に変ったりしたが、大きな撥を用ふる日本式奏法が案出せられて面目を一新した。今日の江戸長唄の隆盛をみるに至るまでの三味線の歴史を書く人があったら面白いものが出来るだろうと思ふが、ともかく特殊の味をもつ楽器として、ギターやマンドリンのやうなものとは全く異る生命のものを其の大きな撥の神技によって創作したのである。義太夫節が人情の精微を写し出す点に於いて世界無比といはれて居るのも三味線の力が大いにあずかって居ること申すまでもなかろう。斯ういふ風に世界独自の、優秀な文化芸術をつくり出しながら、実はそれほどに世界からみとめられて居らず、ものずきといふ程度の鑑賞の対象となる位ゐなことで、極めて少数の知己があったとしても、どこまでも世に知られないもの、理解されないものとして此の大和島根に温存されて居るのであるが、これを海外に宣伝するためにあせる必要は毛頭無いのである。磨かれたダイヤモンドの美しさは誰にでもわかるが、光って居た金をいぶして曇らせたいびし金の底味のうるはしさは其れだけな霊的素質がないとわからないのであるから、それがわかるほど人類の叡智が進むのを待たねばならない。けれどもさうした時代が近づきつつあるのを吾等は知るのである。一応斯ういふ問題とは縁遠いやうに思はれる自然科学の飛躍的発達の方面からも、どうやらさうした時代が近ずきつつある跫音を聴くことが出来るやうである。宗教は神を出発点として居るが、自然科学は神を目標として突進しつつあるのである。すぐれた科学者、アインシュタインやプランクや、又はジェーンスやエジントンのやうな人たちは、ひたむきに自然科学から神への旅を急ぎつつあるやうに思はれる。宗教と科学とは「純粋無垢なもの」につながって離れられない運命の旅をつづけて居るのであり、純粋無垢のものが生命であるかぎり総ての芸道とても同じ道を辿りつつあるもので、それは遠い将来であるにしても世界恆久平和の可能といふことが必然性を帯びてくることになり、終末論的な「暗さ」が世界人類の脳髄の白質層にホビヤとして灼きつけられて居る今日にも、「消えない光」として何処かに人間を導くつつ旅行く人々をいたはり慰めつつあるものと云えよう。
 ともかくにも「いぶし金」の文化を抱いて居ることは日本民族の宿命である。私は此は大事に守って行かなければならぬものと思ひ、それが余り近い将来でなくても必ずや世界の文化にも平和にも貢献する巨大なものであると確信するのである。
 この日本の「いぶし金」の芸道を、比較的多くの人にわかりやすく話すには、俳諧といふものがその適当なものの一つであることも異議はなかろうと思ふ。

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 談林時代までの俳諧は固(もと)より論外で、何といっても芭蕉によって「文芸」としての俳諧は誕生したものである。俳言といふのは俗語のことであるが、芭蕉によって、もうそんなことは問題でなくなった。芭蕉が提起したものは俳言ではなくて、即ち俗語詩ではなくて、「俳味」であった。俳味とは何であるかといふと、どうも数学の公式のやうに説明せられるものではあるまいが、「春雨の柳は全体連歌也、田螺とる烏は全く俳諧也。」といふ芭蕉の教へそのままに答える外はなかろう。春雨の柳が古典的な優雅を思はせるのに対して、農村の生活に即した通俗的な情景の中にも詩趣を見出した芭蕉の霊感が、日本人的な「もののあはれ」を「さび」と「軽み」とによって表現しようとしたのであらう。むろん斯ういふ風な説明は言葉が足らず、又た言葉を足せば足すほど「俳諧」から遠ざかる気づかひがあり、やっぱりかぶとをぬいで芭蕉の言葉通り「田螺とる烏は全体俳諧なり。」といふのが一番いい説明であらう。田螺とる烏、そこに何となく可笑味(おかしみ)の詩趣をほほゑましく感ずるといふやうな意味でもない。ただ田螺とるカラスである。これは或いは絵画で説明した方がいいかも知れぬ。田螺とる烏の図を国栖(くず)紙にでも描いて貰っらそのまま俳諧を視覚を通して解することが出来ると思ふ。
 芭蕉は「松のことは松に習へ。」とも教えた。いっさいの私意私情をもって言葉を工むことを嫌ふのである。私意を去って純粋無垢のものに詩を見出さうといふのであらう。
 芭蕉は「さび」を説き「しをり」を説き「細み」を説いた。「さび」といふ芭蕉の大きな理念は奥の細道の旅の間に工夫されたものと専門家は言ふが、芭蕉の工夫といふよりも、彼が天啓に触れたものといふ方が俳諧的な物の言ひ方ではないが適当と考えられる。彼は其の「ほそぼそ」とした奥の細道の旅で、「さび」といふ神の象徴をへられたので、「さび」は芭蕉の宗教でなけらねばならぬ。「さび」といったからとて、普通の一が考へるやうに、単に閑寂といふやうなことを表現する術語ではないのである。芭蕉の高弟たちの中で、「さび」の衣鉢を正伝 したらしい去来が「さびは句の色なり、閑寂なる句をいふにあらず、たとへば老人の甲冑を帯して戦場に働き、錦繡(きんしゅう)をかざり御宴に侍りても、老の姿あるがごとし、賑(にぎ)かなる句にも静かなる句にもあるものなり。」といって居る通りである。「さび」といふ語は動詞「さぶ」の名詞形で、「さぶ」は物の老い古びたる義である。荒涼とかの意もある。「さび」といふ言葉は芭蕉時代から遙かに古く遡(さかのぼ)って、俊成の歌評(判詞)にも出て居る。「さびたる姿」とか、「さびたるさま」とかに「いぶし金」の美を意味させたのは平安鎌倉以来のことである。しかしそれが芭蕉に直接につながりをもつやうに考えるのは無理とすれば、室町時代に入ってからの心敬の連歌論からであらう。心敬はその師正徹の幽玄論を発展させて幽玄の美を連歌の最高理念としたのである。幽玄余情の極致を「さび」とか「ふけ」とか「やせ」とか説いて、最も高い美はしさは常に表現を超えたところにあることを力説したのである。「有明の月、枯野のすすき」の如き枯淡閑寂の味ひを心敬は人々のに理解させようとしたのである。芭蕉は心敬から導かれたことは間違ひのないところであらう。けれどもそれが彼の明白な理念となったのは奥の細道の旅に於て、神の象徴として「
「さび」の美感を完成的に味ひ得てからであらう。

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 芭蕉は又た「細み」といふことを、よほど気にしたやうである。俳諧における細みとはどういふ趣きであらうか。芭門の人たちが「細み」について書いて居るものからみると弱小といふやうな意味は少しも含まれて居らず大体は「さび」の余情につづく感覚のやうであるが、又た一(ひ)と筋に細々と心が凝(こ)って美感に溶け入る心をも「細み」と伝え、手ぢかの卑近な微細のものにも詩美を見出す霊感をも「細み」といって居るやうであるが、要するに神韻余情を感得する心のはたらきを意味して居るやうに思われる。通俗卑近なものの中から「さび」の美をさぐる心、それが細み」として伝わるものであるやうに「去来抄」や「俳諧耳底記」の中から読みとれる気がするのである。ちかごろの青年俳人の中には、さびだの、そんな昔の人の感情の糟粕はどうでもよい、われわれは世界一の短い詩形によって万象を歌い、万感を表現すればそれでいいのだ、といふやうなことをいふ人があり、またそんな風調が大勢を制して居るやうであるが、芭蕉の俳諧精神は少数の人たちでもいいから是非大事に守って行っていただきたいものとふ。われわれ門外漢が柄にもないことを提言する必要もないやうなものではあるが、民衆的な詩で、しかも文芸性の高い芭蕉の芸術は中世の歌道より上位にあるものではないが下位にあるものでもないのである。されが崩れて行くのを見て居ると、われわれの魂が虫食まれて行くやうな淋しさを感ずる。二十年前にフランスで流行しかけた俳諧は物にならなかったとしても、永久に多民族に理解されぬものと考へられぬ。それそれの特色があるにせよ、何等かの宗教を有し、高度の文芸を有する人類であるかぎり、いつかは真に理解し合い、会得し合い、尊敬し合はねばならぬ宿命のものであると吾々は考えたい。しかし芭蕉の「さび」とか「しをり」とか「細み」とかいふものは明日以後の日本では一層つめたく待遇せられるものであるにちがひないし、そんなものを守って行く人々は、つらい旅をつづけて行く人たちであらうけれど、もとより名利の念などかなぐり捨てて、身辺から荷物をも捨て去っても、一鉢をもって江湖に雲遊する托鉢生活をつづけていただきたいものである。近ごろの人の句では虚子の「遠山に日のあたりたる枯野かな」の如きが、ほそぼそと芭蕉の道を伝へて居るものと思われる。平明の中に無限の詩美と俳味とをつないで居る此の虚子の句のごときは後生に伝ふべきものであらうと思われる。こんなことを私がいふのは何も俳諧のためにのみいふのではない。「石城山の宗教」のためにも言ふのである。

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 芭蕉は又、晩年には特に「軽み」といふことを提唱したやうである。「軽み」といふことは軽浮とか軽薄とかいふ言葉を聯想しやすいが、もとよりそんな意味は毛頭なく、「甘み」を抜くことに生涯の精進をした芭蕉が当然辿(たど)りつくべきところで「軽み」といふことは彼が早くから唱へたやうであるが、特に晩年に於いて強調したことは文献の上に確証のあるところでである。軽みは平明であり、停滞せずに流れるものであり、濃厚な味を去ったものであるが、ただ平易通俗といふやうなものではない。許六の言葉からいへば「軽み」とは俳諧のためにの底を抜く工夫をつづけることで、「さび」とか「しをり」とか「細み」とかに腰をかけて居ないことであり、不断に新生面をひらき、純粋無垢のものを追求する芸術精神である。「甘みを抜きたる俳諧」を求めて旧染にとどまらず、俳諧の底を抜くことが軽みであった。濃厚とか繊巧とか手のこんだ、こってりした味ひが甘みであり「さび」や「細み」でさへもが、どうかすると甘みになりたがるので、その甘みを抜き、底を抜くのが芭蕉の「軽み」の精神であった。去来は「軽の軽たるを知らずして、みだりに此れを好まば卑薄に落ちん。」といって居るが軽みが言葉や趣向の平俗を意味するものでないことをいふのであらう。去来の手紙に「翁曰(おきないはく)。俳諧は暫(しばらく)も住すべからず、住するときは重し。」ともあるが旧染の重みを嫌ふのが軽みであらう。この軽み精神は芭蕉の俳諧道だけでなく、実は諸道に於ても同じことが考へられたのであり。茶道の祖、珠光の手紙にも「花のこと、座敷よきほどかろかろとあるべし。」などある。茶道の花が座敷が立派であるほど軽ろ軽ろとあるべきことが守るべき道でああった。それでないと茶道の「わび」の美は濁されることになるからである。音曲の如きも重く深く進んで修行が積むと垢抜けのした軽みの神技に入って行くものであった。画道のごときもさうであり、土佐派の画論には「それ画の要は軽の一字にあるのみ、真の極彩色也とも軽の意を忘るべからず。」とある。例の蕪村の離俗精神なるものも要するにそれで、ただ画趣の平淡とか筆致の暢達とかを意味するだけでないので、狩野章信が「神妙二品は軽の一字たり。」と説いたのも同じことで、日本の芸道の秘奥が外国の人に容易に会得されにくいのも、斯くいふところが、一と通りの説明位ゐでわからないからであると思う。石城山で霊学をやって居られる人々も、斯ういふところに深い工夫がいたさるるのでなければ、ただ山を登ったり下ったりせられるだけでは進境が思はしくないのであらう。
「軽み」といふことが、旧染の重みを破って日に日に新しい生面を開くことであっても、それは古い約束を叩きつぶすといふわけのもおであってはならない。軽みを唱へた芭蕉は依然としてさびや細みの行者であった。明治になって正岡子規のやうな天才が出て、新しい俳句の天地を開闢したといっても、彼は決して芭蕉の反逆者ではなく、芭蕉精神の扇揚者であったので、鬼城あたりも随分と個性を発揮したけれど芭蕉の道を巡礼する純真の行者あって、ちかごろの所謂(いわゆる)新傾向の俳句を提唱する人たちの中の、或人々のやうな乱暴なものではなかった。支那の詩にしてもインテリの間で二十年ばかり前に北京大学あたりを中心に、無韻無平仄(ひょうそく)の白話体の詩新運動が起こされたけれど、それは所詮西支那の十二弦の箏曲のやうなものでしかなかった。世界は限りなく進むといっても、精神文化の面に於ては、必ず一つの最高峰の時代といふもんが、西欧でも何処でも例外なしにあるもので、それを尚(とふと)ばずそれを師とせず、それを基準とすることもなくしては堕落するものである。支那の詩にしても盛唐時代中唐時代のやうなものは後生に収穫が絶無である。漢詩はどこまでも唐詩を目標とせねばならず、それは人間が勝手にしたものでなく、神の象徴だからである。日本の芸道でも奈良、平安、鎌倉とそれそれの時代にそれそれの権威出現時代があったので、歌道には歌道の最高峰時代があったごとく、俳諧道では何としても芭蕉を永遠の代表者として畏敬しなければならぬ。畏敬すべきものを畏敬するのが、われわれ人間の尊貴性を保護する所以である。他民族が畏敬するものに対しては、やはり畏敬を表さなければならぬ他民族が畏敬するところを蹂躙して憚(はばか)らざるものは、みずからの品性の下劣さを意味する以外の何ものでもない。これは同民族が過去の文化に対する場合も亦た同様である。人類は如何なる民族が有する神の象徴に対しても、恭謙な態度であらねばならぬ。

ーーー昭和二十年十月二十四日ーーー

2012年12月9日日曜日

6-石城山の宗教

 うるはしき心、真の「やまと心」の本質といふものを語るために、日本の芸道や文学の特質の一端を概観的に述べて来たが、形而上的なものの見方が西洋には存在しないといふてやうな乱暴なことを申すのではない。しかし日本の芸道が生命とする「純粋無垢のもの」が外国人には容易に理解しにくいものであったといふことを日本画の「余白」や、俳諧の「さび」や「細み」について略途して来たのである。ギリシャ哲学でいふところの形而上学も、近世の弁証法哲学で説くところのものも、要するにそれは思惟の上に建立されたものである。日本芸道に於ける純粋無垢のものといふのは、その思惟を否定したものである。もっと言葉を強めていふと、叡智を否定したものである。それを日本記では天神の垂示として「平心」キヨキココロとして伝へて居るやうに思われる。日本に輸入されて、その純粋無垢のものとぴたりと一つになった禅もそれである。禅は支那で大成したから支那にも或る時代までは其の叡智を否定するものが理解されてゐた。インドから来たといふ通俗的な見方もあるが、禅思想の或る恰好はインドに古くからあったがそれは決して禅ではない。禅は支那で湧き出でたもので宿命的に日本の純粋無垢のものと一体になり、それが日本の芸道を創造したので、それは音曲とか美術とかいふやうなものだけでなく、あらゆるものに及び、それが世界の文化に対して高度の寄与をせねばならぬのに、極めて少数の例外は別として、却って日本のすべてのものを難解なものとして、日本国はあらゆる場合に誤解を受けやすい立場にさへ立たせられた野である。黄檗の「心境雙忘」といふ境地は日本の芸道のすべての面にあらはれ、神道方面では伊勢神道が特に其の影響を顕著にあらはしたのである。鎌倉期に発達した伊勢神道は、風の音の遠き昔から古い伝承を黙々と守って来たが、其の思想の表現方法を鎌倉中期以後に於いて禅によって発見したのである。

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 伊勢神道の思想表現が禅を通路として行われたことは、度会行忠(わたらいゆきただ)、同家行(いへゆき)、同常昌(つねまさ)等の書いたものによってもわかる。むろん真言密教の思想が濃厚ではあるが、ものの考へかたが全く禅的であった。もっとも後期の伊勢神道すなはち江戸時代に入ってからの儒教易理を集合したものとは区別しておいての話である。度会忠行(ただゆき)(西河原忠之)の書いたものは、伊勢二所太神宮名秘書(弘安八年)と古老口実伝(正安二年ごろ)などが伝はって居り、度会(松村)家行の著述には神道簡要(文保元年)類聚神祇本源(元応二年ごろ)瑚漣集(年代不明)があり、度会(檜垣)常昌に常昌祓、皇字沙汰文、旧事本紀玄義序(元弘二年)などがある。その奥義ともいふべきところは「機前を以て法と為す」(類聚神祇本源)といふにある。すなはち「思惟以前」であり、叡智の否定であり、絶対自由であるのである。伊勢神道の二宮一光の理などが世間の注意するところとなったけれど、元来の古伝を「似二機前一為レ法」といふ禅的表現によって提示したところが神髄である。自由主義といってこれほど徹底した自由主義はない。だから「神の神たるは天地に先だつの神、道の道たるは乾坤を超ゆる道」(旧事本紀玄義序)ともなるのである。乾坤を超ゆるの道は陰陽を超ゆるの道であり、プロトンとエレクトロンの奥へ行く道である。一つのエレクトロンは三次元の空間に於ける波動、二つのエレクトロンは六次元の空間を要し、三つとなれば九次元の空間を要することとなり、科学者の「思惟」の及ばぬところとなるが、それを伊勢神道の奥義は提撕して居るのである。そこに自由を超えた絶対自由の原理があるのである。石城山の宗教が、伊勢神道の末端に関係なく、その古伝の奥義に通路がつながって居るやうにみられるのは、その為めである。

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石城山ではどういふわけで無言の行をやらせるのか、あれは中世以後の或る派の行道仏教などの真似をやってるのでないかとの質問を受けた。これも実は「機前を以て法と為す」ところを体験させつつ身心の潔斎をさせる神事であって、いにしへより我国に伝へられて居るところのもので、文献的に確証はないけれど厳重な師承によるところのものである。文献的に確証がないといっても或る程度の傍証は出来ないわけではない。出雲風土記の中にこんなことが書いてある。アヂスキタカヒコの命が青年時代になっても 泣かれるだけで物を言はれない。母の神がおもりしながら各地をお廻りになるがそれでも泣くのをやめられない。父の神が夢で神に神に祈られて、御子が物を言はれた夢をみられる。夢さめてから父神がおたづねになると、初めて「御津」と言葉を洩らされる。それはどこだとおたづねになると、そこを立ち去られて石川を渡り坂上に至ってとどまられ「此処」と申され、その水沼(みぬま)でみそぎをせられた。それだから国造が神吉事(かむよこと)を奏しに朝廷へ参られるときに此の水沼でみそぎをせられるのだといふ話の筋である。これは古へに於いて、神事が無言のままで行はれ、出雲国造りの上京に際しても其の齋館を出られてから無言のままで此の御津の水沼まで来てみそぎをせられることになっていたのが所謂神話化せられてこんな風に語られて風土記に記録されたものである。
 かくべつな霊地に於て無言の行をするといすことは、魂ひの更正を意味するのである。そのときから全然新しい生活に入る神事であって、昨日までの旧染を洗ひ去って新しき世界に入るためにも、みなさまが更に此の神山に登らるることをおすすめしたいのである。われわれ人間は、その時代々々の影響を受けないわけには行かないのである。昨日は昨日であり今日は今日である。旧染めを洗ひすてて新しい眼をひらく、それが芭蕉の「軽み」の精神である。これは古伝の「中今」の思想とも通ずるもので、それがなければ人間は進歩することは出来ないのである。一ところに停滞してゐるのが神の意志ではないのである。純粋無垢のものを追求してどこまでも深く清く高く美はしきものに指向する。それが真の「やまと心」のありかたである。重大な大御神の意思表示でも変更があるのである。同床共殿の儼たる神勅がありしにもかかはらず神鏡を別所に、崇(あが)め奉らせ給ふこととなったのは、崇神紀にみえるやうに単に神威を畏ませ給ひしのみではあるまいと思ふ、これは大同元年神宮本紀に見ゆるやうに大御神の勅命によったものとしなければなるまい。このことだけでも眼を閉ぢて静かに考へてみられるならば、いろいろの疑ひの絲のもつれを一つ一つほぐして行くことが出来るのでないかと考へられるのである。われわれは道を忘れて道をふむ「機前」の自由を見失はないやうにして行くべきであらう。
石城山で音霊法を修してゐるのも「機前」の状態になることである。それによって「ますみのむすび」を体験することである。五蘊皆空を照見することである。だから其の妙境に入れば一切苦厄を度ふるわけである。今日の物理学は万有の本体は精神的なものであらうといふところまで進んでゐる。万有が「空の状態にあるもの」といふことを物理学は仮想しつつあるのである。音霊法はそれを万人に体験せしめんとして居るのである。五蘊皆空を照見して一切苦厄を度するといふことを口頭の語でなしに、直ちに実証せしめんとしつつあるのである。純粋無垢のものを追求せしめんとするのである。あらゆる芸道の秘奥のこつを会得せしめんとして居るのである。それによって世界の高度の文化に寄与するところあらんと身構へつつあるものである。地上の人類が誰でもが実際に幾分づつでも五蘊皆空を照見することを躬をもって経験することが出来るならば、争闘の心は自然消滅するのである。

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 人間は自分自身も苦をうけず楽を得たいと考へるが、隣人に対しても苦を抜いて楽を与へようとする本能的感情をもって居るのである。それを相互に何とかうまい方法を考へて都合よく行くやうにしようと考へつつあるので、それは世界的な、わけへだてなき人類の原始的感情で、さういふところに生まれた神話の型も殆ど何処の国にも痕跡があるので、一種の宗教感情ともいふべきものであらう。
農耕文化が相当に進んでくると、自分たちの労働の伴侶である牛を殺して喰ふことにどうも済まぬやうな気もちになる。しかし狩猟や牧畜を本業として来たものとの交流によって牛肉を喰ふことの味覚を捨てることがでいず、そこに牛肉を食べつつ気の済むやうな都合のいい方法を考へねばならなかったのである。類が誰でもが実際に幾分づつでも五蘊皆空を照見することを躬をもって経験することが出来るならば、争闘の心は自然消滅するのである。
 ブーフォニアの祭事は斯くして生じたのであらう。最初の牛殺しクウローンの物語りともなったので、この男に牛殺しの犯罪をなすりつけることになったのである。
 ブーフォニアは毎年アッティカ暦の第十二月(我国六七ごろ)の第十四日目に行われた。祭壇に小麦に混ぜた大麦おもって作られたパン菓子が供へられる。幾頭かの牛をつれて祭壇のぐるりをめぐる。その内に御供物を食べた牛が犠牲にささげられる。先ず水運びの役の少女たちが汲んで来た水で斧と短刀とが清められる。その武器が殺し手の役の人に渡される。殺し手の 一人が斧で牛をやっつけ、もう一人の男が牛の咽喉を斬る。この二人の男は斧と刀とを 投げ捨てて一目散に逃げる。牛肉は参会者一同が饗宴の料にする。皮に藁をつめて縫はれた牛が生きて居るやうに犂につながれる。それから裁判が開かれる。さあ誰が牛を殺したのだ、牛殺しの犯罪者は誰だといふことになる。水運びの少女たちは斧と短刀を砥いだ男たちが悪いといふ。砥いだ男たちは斧と短刀を牛殺しに渡したものを咎める。渡した男たちは牛殺しが悪いといふ。牛殺しは斧と短刀とが悪いのだといふ。とどのつまりが罪は斧と短刀が負ふことになって有罪の宣告があり、その斧と短刀とは海中に投げこまれるのである。北方から移住して来たギリシャ族は牛肉食の本家であると専門学者は考証しているが、この祭事の最も原始的なものに於ては人間が一人その罪を負うて殺されたので、それが段々と考へかたが発達して斧と刀とが罪を負ふことになったのである。
 それにしても斧と刀とが犠牲になって海に投げ込まれるところに人間の考へ方の一つの型があるのである。
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 わかってゐて、わからないやうな顔をすること。斧と短刀とを海に投げ込む宣告を厳そかに下す法廷、そこに一つの人生の縮図がある。人間の悲しき生活形態がそこにある。それをどういふ風に神々が見そなわすかは別個の問題であらう。
 歌舞伎ょ中にも随分と見物が勘を働かせなければ ならぬものがある。偽首実験の盛綱の表情のごとき、あまりにもむつかしい複雑さで、見物の中の幾人かがどこまでを見て居るのかと怪しませるほどである。元来この芝居は鎌倉時代にしてあるが、じつは大阪城攻めの真田一家を描いたものである。
 すなはち三郎盛綱が真田信昌、四郎高綱は真田幸村、和田兵衛は後藤又兵衛、北条時政は徳川家康で、盛綱の妻早瀬は本田中務の娘といふ風に役柄が見立ててある。盛綱陣屋一幕の、とりわけ古四郎自害のところは種々の複雑なもつもが重なり合ふところで、見るにも骨の折れる芝居である。まず盛綱の前に首が運ばれる。そのとき先づ盛綱はにやりと笑ふ。誰がみてもわかる偽せ首を持ち込みゃがったといふ笑ひである。とたんに囚はれ人の小四郎が馳せ寄って来て「父さまか」といひながら自害する。ここで盛綱は首桶の蓋をして小四郎をにらみつけ、むつかしい顔をする。これは小四郎の行動に対する咎めだてと、それにしてもなぜ飛び出したのだらうといふ不審とを混合したむつかしい顔である。その直後に、表情が又た一変して「はてな」と考へる模様になる。俺の眼でみてさへ、まぎれもない偽せ首なのに、現在の伜が、何をうろたえて、飛び出してきて「父さまか」と感激して自害までするのか、そこを考へようとしたが、気がつくと自分の後ろに時政公が睨みつけてゐるのだ。ぼんやりしては居れぬ。偽さ首なら偽せ首と云ってしまへば役目は済むとも一寸考へるが、又た念を入れて再び首桶の蓋をあけて見直さうとする、小四郎の断末魔のうめきが聴える。盛綱の感情もかきみだされさうになる。京方一番の軍師といはれる弟の高綱め、いつもの手をやり居ったな、只の偽せ首では通らぬから小四郎を生捕りにさせたのは、かうして偽さ首でない証拠を見せようとするこんたんだ。斯うして俺をでなく、時政公の眼力をくらまさうとするのだ。二段がまへの偽せ首をつかませやがった、畜生め、といふ心もちで盛綱は揚幕の方を見込んで、ああさうだという風に一寸うす笑ひをかける。だが、そこで咄嗟に相好が変わって、さっと顔を緊張させる。いくら謀略にしても、あんまりな念の入れ方だ、我子の命一つまでぶち込んでまでのにせ首沙汰、よくよくのことだなと、又た一寸眼がしらが熱くなる。ここで盛綱は、生首をみつめつつ小四郎のうめき声をしんみりと聴き、時政公の手前は入念に実験をして居るやうに見せかけつつ考へ込む。どうしたものだらう、我子の命まで賭けての偽せ首を、偽せ首ですと言ひ切ったら花も実もない匹夫のしごとになる。さればとて、まぎれもない偽せ首だ。思案する間にも小四郎のうめき声、母親までが和田兵衛の供まはりにまぎれ込んで見とどけに来て居るらしい模様、母への気兼ね、あれもこれも盛綱のこの時の胸一つにからは結んで来る。エエままよ、此処は兄弟のよしみだ、弟の心も汲んでやらう、見方を裏切る申しわけには、あとで俺の腹一つ掻き切ればそれでいいんだ、`````「弟佐々木四郎高綱が首に」、と首に向かって真っすぐに云っておいて、首をさっと抱き上げ、身体を時政公に向き直り「相違ござりませぬ」と言ひ切ってしまふ。これだけなことを短い時間にやってのけるのだから、盛綱の役も大変なものである。
 斯ういう風な人間のくるしみと、それから必然的に発展する人生の「しぐさ」は何処の国の古代伝承にもあることで、それをよく読み直して行かなければ、なにごともわからなくなってくるし、それが所謂「神話」といふ形になって居るならば、その神話がどうして生れて来たかも考へねばならず、神の象徴がどう取扱はれて居るか、象徴がけが注意されて神が忘れられて居る部面かどうなって居るかといふやうなことも静かな物ごしで応接しなければならぬ課題であらう。
 九州から大和への時代には大和が日高見国であったらう。後の世になって常陸国が日高見国になり、更に奥へ奥へと日高見国が押し移って行ったらう。続紀にある日河は日高見川で、ヒタカミはキタカミとなり、今の北上川となったらう。その川岸に高見神社や日高見山妙見社があるのも当然なことであらう。つい先達てのこと、源頼朝の頃に漸(やうや)く青森あたりまでが、まとまったものになったのだらう。「あきつしま大和」といふ咒言にしたところで、地理的に或る地方に固定した名称を意味するものではなかったらう。盛綱が時政公に向き直り「相違ござりませぬ」と言ひ切るやうな場面は、実は誰にも、いかなる時代にもあったことであらう。団十郎は晩年には盛綱を二心ある男として、その役になるのを拒否したといふが、それは果して団十郎の思想の潔癖を賛美する逸話となるものであらうか。いったい、誰が斧と短刀とを海へ投げ込むことを考へたのだらうか。
 誰でもない、いつの世にも、誰でもが考へる本能的の道すぢであらう。人類の頭脳の皮質層の奥の白質層に、さういふものが頑張って居るのであらう。そこから湧く叡智といふものを考へてみるのもよからう。叡智を否定し、「機前」の美(うる)はしきもの、純粋無垢のものに指向するところのものがなければ人間は堕落するのみであらう。大和は、国のまほてろば、たたなづく、青垣山隠れる、大和しうるはし。その「うるはしき大和」に吾等は帰らねばならぬ。

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 或る時、電車が停留して、少し経った時にやっと気づいた一人の大年増、あわてて大声を出して「降ります! 降ろして下さい、降ろして下さい。」と運転手へ連呼した。一瞬、乗客は少し緊張したが、運転手が落ちつき払って「勝手に降りて下さいよ。」と答へたのに、大笑ひになった。小さな子供でもあることか、こんな大年増を、降ろしてやれるものではない。勿論おかみさんも、さうもでして貰ふつもりではない。「降りさして下さい。」の意味で云ったのである。それを運転手が余程とぼけたもので、わざと言葉通りに取って、剣もほろろのやうに、「勝手に降りて下さいよ。」と、云ふまでもないことを云ったので、乗客が言葉の上のこの小喜劇に期せずして笑い崩れたのである。
 こんな小話を、物の本で読んだが、それを禅の公案のやうに取り扱へとの意味で書かれたのではなく、言葉には限りがあって、心には限りがない。限りある言葉で限りなき心を写さうとするとき、言葉のいろいろの工夫がいとなまれることを面白く説明するために一例として書かれたものであらう。
 言葉は神の象徴であるが、言霊のたすくる国といっても言葉には際限がある。言葉は思推の範囲のものかあらはれてゐるのである。「機前」のうるはしき心を言葉によって直接的に表現することはむつかしい。けれどもそれを吾等の祖先はは追求したのである。言葉だけでなく、すべてのもの、殊に芸道に於いてそれを追求して云ったのである。我国の古典をひもどくと、鏡造り、玉造り、踊り、音楽、等々の如く芸道即神道であったことが語られてゐる。中世に於いては明白に歌道を神道なりと喝破したが、歌道だけでなく、芭蕉の俳諧も芭蕉の宗教であり芭蕉の神道であった。能楽その他の音曲の道もそれであったし、その他もろもろの芸道がそのまま神道であった。それらの歴史は何れも純粋無垢のものを指向する苦闘史であった。その秘奥は言葉や書きもので伝授が出来ず、授くるものと受くるものとの間の叡智的な感格であったが、その叡智を否定して更に一つの飛躍がなければ伝神の技とすることが出来なかった。この「思推」を否定しり精神活動は必ずしも貴族的なものでなく、芭蕉の道に於いてもうなづけるやうに、むしろ大衆性のもので、教養の高いものにも低いものにも会得の出来さうな相言葉として「勘」といふ言葉が用ひられた。日本の芸道は此れを鑑賞するにも修行するにも「勘」といふもので純粋になることが要求せられた。石城山の宗教に於ても特にさうした方面が重要視されて居た。霊感といふ言葉は今日では一般世間から誤解を受けやすいものになって居るが、わかりやすく云ふと「勘」の純粋なものといふことにしておいても差支えないと思われるのである。
 日本は将来農業や平和的な軽工業によって立っていかねばならぬとのことであるが、さういふことになれば尚更(なほさ)らのこと日本の芸道精神がそれらのものの上にも活かされて来ねばならぬのである。農業にしたところで日本では其れは「農芸」とならねばならぬ。芸道的な「美はしき心」が浸み込むのでなければ真の増産も出来ず、真に土を愛する「土の宗教」も生まれて来ないのである。工業も「工芸」とならねばならぬこと申すまでもない。医学や医術も日本では「医道」とならねばならぬ。医家の第一資格は「美はしき心」の持主であることが要請せられねばならず、それによって臨床上の成績は二倍にも三倍にもなるであらう。東洋では古来「医は仁術」と云はれて居るが、仁術といふ言葉は余りにも時効にかかり過ぎた支那道徳的で堅苦しい感じがする。真の「やもと心」すなわち「うるはしき心」によって日本の医道は反省されねばならぬ。その他万般の業務みな然りで、さうなってこそ神国とも云へるであらう。換言すれば日本人が皆な芸術家になることである。言葉が甚だ奇矯のやうであくが、何の仕事をするにもそれ位ゐのたしなみが必要である。万葉時代でもあらゆる階層の人たちが如何に詩人的な天分を発揮して居たかを考へられるべきてである。
 心の色うるはしからざれば外に言葉を工むと芭蕉は云ふ。言葉を工まぬ文学、それが彼の本願であった。春雨の柳は全体連歌なり、田螺とるからすは全く俳諧也ともいふ。田螺取る烏に俳味を感得する芭蕉は、古池の一句に蕉門の開眼をしたと伝へられるが、心の色うるはしからざれば味致し難き境地である。しかも日本のあらゆる芸道は其の一つのものに苦労して来たのであらう。それが吾々の認識における石城山の宗教の重要な一つの面である。
 わたくしどもの観測するところにによれば、世界は愈々もって容易ならざるところへ推し進められつつある。結局は「うるはしき心」の世界顕現への神たちの幽玄遠大な神策であらうし、われわれもその幽玄の天意を体して真の美はしき平和世界のために応分の努力をいたさねばならぬこと勿論であるが、しかし此の大峠を越すのは常識的な予想だけで済むやうなことでないと思ふ。すこし具体的に云ふと、地上の人類は過去一年間に非常なことを経験したが、今後の一年間には更に其れを数倍するほどの重大なものを経験するであらう。しかも其れは人類生活に苦痛を伴はぬ事件のみと解することは極めて困難である。しかも日本人だけが其れを免かれるわけに行かないし、否、或ひは日本人の受けるショックが一番大きいものであるかも知れない。実は今後の一年間を生き抜くといふことからして大事業で、これは単に食料問題とか社会問題とかいふ方面からのみ申すのではないのである。石城山の昔からの神事に、「マダデゴザル」といふヒメゴトがあるが、これは容易のことでないのである。われらは地上人類の苦痛が少しでも緩和されて其れを乗り切るやうに至信の悃禱(こんとう)をつづけなければならぬ。吾れのためとか彼のためとか、この国のためとか何の国のためとかの、けちな問題ではないのであって、「機前を法となす」ところの絶対的な大きな愛をもって、無辺際の「まこと」をもって、悃禱(こんとう)をつづけて行かねばならぬ。


            ーー昭和二十年十一月二十三日日記ーー