うるはしき心、真の「やまと心」の本質といふものを語るために、日本の芸道や文学の特質の一端を概観的に述べて来たが、形而上的なものの見方が西洋には存在しないといふてやうな乱暴なことを申すのではない。しかし日本の芸道が生命とする「純粋無垢のもの」が外国人には容易に理解しにくいものであったといふことを日本画の「余白」や、俳諧の「さび」や「細み」について略途して来たのである。ギリシャ哲学でいふところの形而上学も、近世の弁証法哲学で説くところのものも、要するにそれは思惟の上に建立されたものである。日本芸道に於ける純粋無垢のものといふのは、その思惟を否定したものである。もっと言葉を強めていふと、叡智を否定したものである。それを日本記では天神の垂示として「平心」キヨキココロとして伝へて居るやうに思われる。日本に輸入されて、その純粋無垢のものとぴたりと一つになった禅もそれである。禅は支那で大成したから支那にも或る時代までは其の叡智を否定するものが理解されてゐた。インドから来たといふ通俗的な見方もあるが、禅思想の或る恰好はインドに古くからあったがそれは決して禅ではない。禅は支那で湧き出でたもので宿命的に日本の純粋無垢のものと一体になり、それが日本の芸道を創造したので、それは音曲とか美術とかいふやうなものだけでなく、あらゆるものに及び、それが世界の文化に対して高度の寄与をせねばならぬのに、極めて少数の例外は別として、却って日本のすべてのものを難解なものとして、日本国はあらゆる場合に誤解を受けやすい立場にさへ立たせられた野である。黄檗の「心境雙忘」といふ境地は日本の芸道のすべての面にあらはれ、神道方面では伊勢神道が特に其の影響を顕著にあらはしたのである。鎌倉期に発達した伊勢神道は、風の音の遠き昔から古い伝承を黙々と守って来たが、其の思想の表現方法を鎌倉中期以後に於いて禅によって発見したのである。
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伊勢神道の思想表現が禅を通路として行われたことは、度会行忠(わたらいゆきただ)、同家行(いへゆき)、同常昌(つねまさ)等の書いたものによってもわかる。むろん真言密教の思想が濃厚ではあるが、ものの考へかたが全く禅的であった。もっとも後期の伊勢神道すなはち江戸時代に入ってからの儒教易理を集合したものとは区別しておいての話である。度会忠行(ただゆき)(西河原忠之)の書いたものは、伊勢二所太神宮名秘書(弘安八年)と古老口実伝(正安二年ごろ)などが伝はって居り、度会(松村)家行の著述には神道簡要(文保元年)類聚神祇本源(元応二年ごろ)瑚漣集(年代不明)があり、度会(檜垣)常昌に常昌祓、皇字沙汰文、旧事本紀玄義序(元弘二年)などがある。その奥義ともいふべきところは「機前を以て法と為す」(類聚神祇本源)といふにある。すなはち「思惟以前」であり、叡智の否定であり、絶対自由であるのである。伊勢神道の二宮一光の理などが世間の注意するところとなったけれど、元来の古伝を「似二機前一為レ法」といふ禅的表現によって提示したところが神髄である。自由主義といってこれほど徹底した自由主義はない。だから「神の神たるは天地に先だつの神、道の道たるは乾坤を超ゆる道」(旧事本紀玄義序)ともなるのである。乾坤を超ゆるの道は陰陽を超ゆるの道であり、プロトンとエレクトロンの奥へ行く道である。一つのエレクトロンは三次元の空間に於ける波動、二つのエレクトロンは六次元の空間を要し、三つとなれば九次元の空間を要することとなり、科学者の「思惟」の及ばぬところとなるが、それを伊勢神道の奥義は提撕して居るのである。そこに自由を超えた絶対自由の原理があるのである。石城山の宗教が、伊勢神道の末端に関係なく、その古伝の奥義に通路がつながって居るやうにみられるのは、その為めである。
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石城山ではどういふわけで無言の行をやらせるのか、あれは中世以後の或る派の行道仏教などの真似をやってるのでないかとの質問を受けた。これも実は「機前を以て法と為す」ところを体験させつつ身心の潔斎をさせる神事であって、いにしへより我国に伝へられて居るところのもので、文献的に確証はないけれど厳重な師承によるところのものである。文献的に確証がないといっても或る程度の傍証は出来ないわけではない。出雲風土記の中にこんなことが書いてある。アヂスキタカヒコの命が青年時代になっても 泣かれるだけで物を言はれない。母の神がおもりしながら各地をお廻りになるがそれでも泣くのをやめられない。父の神が夢で神に神に祈られて、御子が物を言はれた夢をみられる。夢さめてから父神がおたづねになると、初めて「御津」と言葉を洩らされる。それはどこだとおたづねになると、そこを立ち去られて石川を渡り坂上に至ってとどまられ「此処」と申され、その水沼(みぬま)でみそぎをせられた。それだから国造が神吉事(かむよこと)を奏しに朝廷へ参られるときに此の水沼でみそぎをせられるのだといふ話の筋である。これは古へに於いて、神事が無言のままで行はれ、出雲国造りの上京に際しても其の齋館を出られてから無言のままで此の御津の水沼まで来てみそぎをせられることになっていたのが所謂神話化せられてこんな風に語られて風土記に記録されたものである。
かくべつな霊地に於て無言の行をするといすことは、魂ひの更正を意味するのである。そのときから全然新しい生活に入る神事であって、昨日までの旧染を洗ひ去って新しき世界に入るためにも、みなさまが更に此の神山に登らるることをおすすめしたいのである。われわれ人間は、その時代々々の影響を受けないわけには行かないのである。昨日は昨日であり今日は今日である。旧染めを洗ひすてて新しい眼をひらく、それが芭蕉の「軽み」の精神である。これは古伝の「中今」の思想とも通ずるもので、それがなければ人間は進歩することは出来ないのである。一ところに停滞してゐるのが神の意志ではないのである。純粋無垢のものを追求してどこまでも深く清く高く美はしきものに指向する。それが真の「やまと心」のありかたである。重大な大御神の意思表示でも変更があるのである。同床共殿の儼たる神勅がありしにもかかはらず神鏡を別所に、崇(あが)め奉らせ給ふこととなったのは、崇神紀にみえるやうに単に神威を畏ませ給ひしのみではあるまいと思ふ、これは大同元年神宮本紀に見ゆるやうに大御神の勅命によったものとしなければなるまい。このことだけでも眼を閉ぢて静かに考へてみられるならば、いろいろの疑ひの絲のもつれを一つ一つほぐして行くことが出来るのでないかと考へられるのである。われわれは道を忘れて道をふむ「機前」の自由を見失はないやうにして行くべきであらう。
石城山で音霊法を修してゐるのも「機前」の状態になることである。それによって「ますみのむすび」を体験することである。五蘊皆空を照見することである。だから其の妙境に入れば一切苦厄を度ふるわけである。今日の物理学は万有の本体は精神的なものであらうといふところまで進んでゐる。万有が「空の状態にあるもの」といふことを物理学は仮想しつつあるのである。音霊法はそれを万人に体験せしめんとして居るのである。五蘊皆空を照見して一切苦厄を度するといふことを口頭の語でなしに、直ちに実証せしめんとしつつあるのである。純粋無垢のものを追求せしめんとするのである。あらゆる芸道の秘奥のこつを会得せしめんとして居るのである。それによって世界の高度の文化に寄与するところあらんと身構へつつあるものである。地上の人類が誰でもが実際に幾分づつでも五蘊皆空を照見することを躬をもって経験することが出来るならば、争闘の心は自然消滅するのである。
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人間は自分自身も苦をうけず楽を得たいと考へるが、隣人に対しても苦を抜いて楽を与へようとする本能的感情をもって居るのである。それを相互に何とかうまい方法を考へて都合よく行くやうにしようと考へつつあるので、それは世界的な、わけへだてなき人類の原始的感情で、さういふところに生まれた神話の型も殆ど何処の国にも痕跡があるので、一種の宗教感情ともいふべきものであらう。
農耕文化が相当に進んでくると、自分たちの労働の伴侶である牛を殺して喰ふことにどうも済まぬやうな気もちになる。しかし狩猟や牧畜を本業として来たものとの交流によって牛肉を喰ふことの味覚を捨てることがでいず、そこに牛肉を食べつつ気の済むやうな都合のいい方法を考へねばならなかったのである。類が誰でもが実際に幾分づつでも五蘊皆空を照見することを躬をもって経験することが出来るならば、争闘の心は自然消滅するのである。
ブーフォニアの祭事は斯くして生じたのであらう。最初の牛殺しクウローンの物語りともなったので、この男に牛殺しの犯罪をなすりつけることになったのである。
ブーフォニアは毎年アッティカ暦の第十二月(我国六七ごろ)の第十四日目に行われた。祭壇に小麦に混ぜた大麦おもって作られたパン菓子が供へられる。幾頭かの牛をつれて祭壇のぐるりをめぐる。その内に御供物を食べた牛が犠牲にささげられる。先ず水運びの役の少女たちが汲んで来た水で斧と短刀とが清められる。その武器が殺し手の役の人に渡される。殺し手の 一人が斧で牛をやっつけ、もう一人の男が牛の咽喉を斬る。この二人の男は斧と刀とを 投げ捨てて一目散に逃げる。牛肉は参会者一同が饗宴の料にする。皮に藁をつめて縫はれた牛が生きて居るやうに犂につながれる。それから裁判が開かれる。さあ誰が牛を殺したのだ、牛殺しの犯罪者は誰だといふことになる。水運びの少女たちは斧と短刀を砥いだ男たちが悪いといふ。砥いだ男たちは斧と短刀を牛殺しに渡したものを咎める。渡した男たちは牛殺しが悪いといふ。牛殺しは斧と短刀とが悪いのだといふ。とどのつまりが罪は斧と短刀が負ふことになって有罪の宣告があり、その斧と短刀とは海中に投げこまれるのである。北方から移住して来たギリシャ族は牛肉食の本家であると専門学者は考証しているが、この祭事の最も原始的なものに於ては人間が一人その罪を負うて殺されたので、それが段々と考へかたが発達して斧と刀とが罪を負ふことになったのである。
それにしても斧と刀とが犠牲になって海に投げ込まれるところに人間の考へ方の一つの型があるのである。
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わかってゐて、わからないやうな顔をすること。斧と短刀とを海に投げ込む宣告を厳そかに下す法廷、そこに一つの人生の縮図がある。人間の悲しき生活形態がそこにある。それをどういふ風に神々が見そなわすかは別個の問題であらう。
歌舞伎ょ中にも随分と見物が勘を働かせなければ ならぬものがある。偽首実験の盛綱の表情のごとき、あまりにもむつかしい複雑さで、見物の中の幾人かがどこまでを見て居るのかと怪しませるほどである。元来この芝居は鎌倉時代にしてあるが、じつは大阪城攻めの真田一家を描いたものである。
すなはち三郎盛綱が真田信昌、四郎高綱は真田幸村、和田兵衛は後藤又兵衛、北条時政は徳川家康で、盛綱の妻早瀬は本田中務の娘といふ風に役柄が見立ててある。盛綱陣屋一幕の、とりわけ古四郎自害のところは種々の複雑なもつもが重なり合ふところで、見るにも骨の折れる芝居である。まず盛綱の前に首が運ばれる。そのとき先づ盛綱はにやりと笑ふ。誰がみてもわかる偽せ首を持ち込みゃがったといふ笑ひである。とたんに囚はれ人の小四郎が馳せ寄って来て「父さまか」といひながら自害する。ここで盛綱は首桶の蓋をして小四郎をにらみつけ、むつかしい顔をする。これは小四郎の行動に対する咎めだてと、それにしてもなぜ飛び出したのだらうといふ不審とを混合したむつかしい顔である。その直後に、表情が又た一変して「はてな」と考へる模様になる。俺の眼でみてさへ、まぎれもない偽せ首なのに、現在の伜が、何をうろたえて、飛び出してきて「父さまか」と感激して自害までするのか、そこを考へようとしたが、気がつくと自分の後ろに時政公が睨みつけてゐるのだ。ぼんやりしては居れぬ。偽さ首なら偽せ首と云ってしまへば役目は済むとも一寸考へるが、又た念を入れて再び首桶の蓋をあけて見直さうとする、小四郎の断末魔のうめきが聴える。盛綱の感情もかきみだされさうになる。京方一番の軍師といはれる弟の高綱め、いつもの手をやり居ったな、只の偽せ首では通らぬから小四郎を生捕りにさせたのは、かうして偽さ首でない証拠を見せようとするこんたんだ。斯うして俺をでなく、時政公の眼力をくらまさうとするのだ。二段がまへの偽せ首をつかませやがった、畜生め、といふ心もちで盛綱は揚幕の方を見込んで、ああさうだという風に一寸うす笑ひをかける。だが、そこで咄嗟に相好が変わって、さっと顔を緊張させる。いくら謀略にしても、あんまりな念の入れ方だ、我子の命一つまでぶち込んでまでのにせ首沙汰、よくよくのことだなと、又た一寸眼がしらが熱くなる。ここで盛綱は、生首をみつめつつ小四郎のうめき声をしんみりと聴き、時政公の手前は入念に実験をして居るやうに見せかけつつ考へ込む。どうしたものだらう、我子の命まで賭けての偽せ首を、偽せ首ですと言ひ切ったら花も実もない匹夫のしごとになる。さればとて、まぎれもない偽せ首だ。思案する間にも小四郎のうめき声、母親までが和田兵衛の供まはりにまぎれ込んで見とどけに来て居るらしい模様、母への気兼ね、あれもこれも盛綱のこの時の胸一つにからは結んで来る。エエままよ、此処は兄弟のよしみだ、弟の心も汲んでやらう、見方を裏切る申しわけには、あとで俺の腹一つ掻き切ればそれでいいんだ、`````「弟佐々木四郎高綱が首に」、と首に向かって真っすぐに云っておいて、首をさっと抱き上げ、身体を時政公に向き直り「相違ござりませぬ」と言ひ切ってしまふ。これだけなことを短い時間にやってのけるのだから、盛綱の役も大変なものである。
斯ういう風な人間のくるしみと、それから必然的に発展する人生の「しぐさ」は何処の国の古代伝承にもあることで、それをよく読み直して行かなければ、なにごともわからなくなってくるし、それが所謂「神話」といふ形になって居るならば、その神話がどうして生れて来たかも考へねばならず、神の象徴がどう取扱はれて居るか、象徴がけが注意されて神が忘れられて居る部面かどうなって居るかといふやうなことも静かな物ごしで応接しなければならぬ課題であらう。
九州から大和への時代には大和が日高見国であったらう。後の世になって常陸国が日高見国になり、更に奥へ奥へと日高見国が押し移って行ったらう。続紀にある日河は日高見川で、ヒタカミはキタカミとなり、今の北上川となったらう。その川岸に高見神社や日高見山妙見社があるのも当然なことであらう。つい先達てのこと、源頼朝の頃に漸(やうや)く青森あたりまでが、まとまったものになったのだらう。「あきつしま大和」といふ咒言にしたところで、地理的に或る地方に固定した名称を意味するものではなかったらう。盛綱が時政公に向き直り「相違ござりませぬ」と言ひ切るやうな場面は、実は誰にも、いかなる時代にもあったことであらう。団十郎は晩年には盛綱を二心ある男として、その役になるのを拒否したといふが、それは果して団十郎の思想の潔癖を賛美する逸話となるものであらうか。いったい、誰が斧と短刀とを海へ投げ込むことを考へたのだらうか。
誰でもない、いつの世にも、誰でもが考へる本能的の道すぢであらう。人類の頭脳の皮質層の奥の白質層に、さういふものが頑張って居るのであらう。そこから湧く叡智といふものを考へてみるのもよからう。叡智を否定し、「機前」の美(うる)はしきもの、純粋無垢のものに指向するところのものがなければ人間は堕落するのみであらう。大和は、国のまほてろば、たたなづく、青垣山隠れる、大和しうるはし。その「うるはしき大和」に吾等は帰らねばならぬ。
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或る時、電車が停留して、少し経った時にやっと気づいた一人の大年増、あわてて大声を出して「降ります! 降ろして下さい、降ろして下さい。」と運転手へ連呼した。一瞬、乗客は少し緊張したが、運転手が落ちつき払って「勝手に降りて下さいよ。」と答へたのに、大笑ひになった。小さな子供でもあることか、こんな大年増を、降ろしてやれるものではない。勿論おかみさんも、さうもでして貰ふつもりではない。「降りさして下さい。」の意味で云ったのである。それを運転手が余程とぼけたもので、わざと言葉通りに取って、剣もほろろのやうに、「勝手に降りて下さいよ。」と、云ふまでもないことを云ったので、乗客が言葉の上のこの小喜劇に期せずして笑い崩れたのである。
こんな小話を、物の本で読んだが、それを禅の公案のやうに取り扱へとの意味で書かれたのではなく、言葉には限りがあって、心には限りがない。限りある言葉で限りなき心を写さうとするとき、言葉のいろいろの工夫がいとなまれることを面白く説明するために一例として書かれたものであらう。
言葉は神の象徴であるが、言霊のたすくる国といっても言葉には際限がある。言葉は思推の範囲のものかあらはれてゐるのである。「機前」のうるはしき心を言葉によって直接的に表現することはむつかしい。けれどもそれを吾等の祖先はは追求したのである。言葉だけでなく、すべてのもの、殊に芸道に於いてそれを追求して云ったのである。我国の古典をひもどくと、鏡造り、玉造り、踊り、音楽、等々の如く芸道即神道であったことが語られてゐる。中世に於いては明白に歌道を神道なりと喝破したが、歌道だけでなく、芭蕉の俳諧も芭蕉の宗教であり芭蕉の神道であった。能楽その他の音曲の道もそれであったし、その他もろもろの芸道がそのまま神道であった。それらの歴史は何れも純粋無垢のものを指向する苦闘史であった。その秘奥は言葉や書きもので伝授が出来ず、授くるものと受くるものとの間の叡智的な感格であったが、その叡智を否定して更に一つの飛躍がなければ伝神の技とすることが出来なかった。この「思推」を否定しり精神活動は必ずしも貴族的なものでなく、芭蕉の道に於いてもうなづけるやうに、むしろ大衆性のもので、教養の高いものにも低いものにも会得の出来さうな相言葉として「勘」といふ言葉が用ひられた。日本の芸道は此れを鑑賞するにも修行するにも「勘」といふもので純粋になることが要求せられた。石城山の宗教に於ても特にさうした方面が重要視されて居た。霊感といふ言葉は今日では一般世間から誤解を受けやすいものになって居るが、わかりやすく云ふと「勘」の純粋なものといふことにしておいても差支えないと思われるのである。
日本は将来農業や平和的な軽工業によって立っていかねばならぬとのことであるが、さういふことになれば尚更(なほさ)らのこと日本の芸道精神がそれらのものの上にも活かされて来ねばならぬのである。農業にしたところで日本では其れは「農芸」とならねばならぬ。芸道的な「美はしき心」が浸み込むのでなければ真の増産も出来ず、真に土を愛する「土の宗教」も生まれて来ないのである。工業も「工芸」とならねばならぬこと申すまでもない。医学や医術も日本では「医道」とならねばならぬ。医家の第一資格は「美はしき心」の持主であることが要請せられねばならず、それによって臨床上の成績は二倍にも三倍にもなるであらう。東洋では古来「医は仁術」と云はれて居るが、仁術といふ言葉は余りにも時効にかかり過ぎた支那道徳的で堅苦しい感じがする。真の「やもと心」すなわち「うるはしき心」によって日本の医道は反省されねばならぬ。その他万般の業務みな然りで、さうなってこそ神国とも云へるであらう。換言すれば日本人が皆な芸術家になることである。言葉が甚だ奇矯のやうであくが、何の仕事をするにもそれ位ゐのたしなみが必要である。万葉時代でもあらゆる階層の人たちが如何に詩人的な天分を発揮して居たかを考へられるべきてである。
心の色うるはしからざれば外に言葉を工むと芭蕉は云ふ。言葉を工まぬ文学、それが彼の本願であった。春雨の柳は全体連歌なり、田螺とるからすは全く俳諧也ともいふ。田螺取る烏に俳味を感得する芭蕉は、古池の一句に蕉門の開眼をしたと伝へられるが、心の色うるはしからざれば味致し難き境地である。しかも日本のあらゆる芸道は其の一つのものに苦労して来たのであらう。それが吾々の認識における石城山の宗教の重要な一つの面である。
わたくしどもの観測するところにによれば、世界は愈々もって容易ならざるところへ推し進められつつある。結局は「うるはしき心」の世界顕現への神たちの幽玄遠大な神策であらうし、われわれもその幽玄の天意を体して真の美はしき平和世界のために応分の努力をいたさねばならぬこと勿論であるが、しかし此の大峠を越すのは常識的な予想だけで済むやうなことでないと思ふ。すこし具体的に云ふと、地上の人類は過去一年間に非常なことを経験したが、今後の一年間には更に其れを数倍するほどの重大なものを経験するであらう。しかも其れは人類生活に苦痛を伴はぬ事件のみと解することは極めて困難である。しかも日本人だけが其れを免かれるわけに行かないし、否、或ひは日本人の受けるショックが一番大きいものであるかも知れない。実は今後の一年間を生き抜くといふことからして大事業で、これは単に食料問題とか社会問題とかいふ方面からのみ申すのではないのである。石城山の昔からの神事に、「マダデゴザル」といふヒメゴトがあるが、これは容易のことでないのである。われらは地上人類の苦痛が少しでも緩和されて其れを乗り切るやうに至信の悃禱(こんとう)をつづけなければならぬ。吾れのためとか彼のためとか、この国のためとか何の国のためとかの、けちな問題ではないのであって、「機前を法となす」ところの絶対的な大きな愛をもって、無辺際の「まこと」をもって、悃禱(こんとう)をつづけて行かねばならぬ。
ーー昭和二十年十一月二十三日日記ーー
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