2012年12月27日木曜日

5-神の象徴


 純粋無垢のもの、それは空間に於ても時間に於ても際限のないものである。第一義的にいふところの神がそれである。それは際限のない力であり無量の功徳であり不測の慈悲であり愛であり、智慧であり、美はしさである。けれども強いて言へば性格のないものである。限られた人間の五官によって把握し得る性格のないもので、無性格がその本当の相である。普通の意味における無性格ではないが、局限された五官の能力しかない人間からいへば、仮にさう見ゆるもので「無性格の状態にあるもの」である。それでは認識の対象にも信仰の目標にもなり難いから、神は、「むすびかため」のまにまにそれそれの因縁ある国土、因縁ある人々に象徴を示現せられて人間を神につながれたのである。人間はその象徴を賛嘆し、象徴に帰依して象徴の奥の神を忘れがちである。阿弥陀も観音も不動も、それは象徴である。ところが阿弥陀を信仰するものが、不動も観音も外道のやうに思ふ癖がつき始めると、そねみ、さげすみ、にくしみ、たかぶりの心さえ生ずることがある。これは象徴の奥の神を忘れた為めである。日本では幸ひにかくべつな宗教戦争といふほどのものはなくて済んで来たけれど、外国には残忍なる宗教戦争の歴史がある。人類は再びさうした愚かなことをくり返してはならぬのである。けれども又、象徴そのものを外にして神はないともいへるのである。それが宗教的信念における特殊の論理である。象徴は人間が創作したものといふ論者があるけれどーたとへば量子論のプランクの如きー象徴は人間が作った場合と神の示現による場合とがある。そしてその何れの場合でも、その象徴を外にして神はないといふことにもなる。花をみるとき、花の外に人生も宇宙もないといふ直感の理念からさういへるのである。或ひは却って誤解を惹きやすい問題を提供することになるかも知れんが、一心専念に天満宮を信仰する人にとっては、天満宮が宗教的畏敬心の一切の対象となるのである。それ位ゐでないと、なかなか実際の「天満宮」を拝むことが出来ず、その神徳をかがふることもむつかしいとさへ云へるのである。その場合、その人にとっては、天満宮は千百年ばかり前に此の世で飯を喰ひ、悲嘆もせられ、怒りも泣きもせられたであらうところの菅原道真公といふ歴史上の人物の霊を拝んで居るといふやうな境地ではなく、道真公に無関係ではないけれど、それとは異なるところの「ありがたい神さま」があるのであって、天満宮といふ象徴そのものが広大な神徳の神である。これを低級な宗教といふことは出来ない。複雑な哲学的思索を伴はぬ宗教は低級であるとは云えない。それこそ人間が勝手な理屈でいふことである。浄土真宗の信仰にしても、すぐれた経論の沢山な講釈があるが、それはむしろ路傍のしごとであって、ただ阿弥陀如来を専念信仰して一疑無きものが尊いので、一文不知の尼入道といへども信仰が致純蕪雑であれば、それが百点である。キリスト教の如きも其の神学は多岐であり微細をつくして居るが、いよいよの其の信仰の尊さは、聖書の中の、僅か数句しか記憶し得ないやうな頭脳の所有者の中にも見出すことが出来るであらう。

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 象徴によって神に通ずるといふことは、自己が象徴になり、自己が神になるといふことである。その場合すでに自己といふものも無くなって居らねばならぬのである。無念無想で神前で拍手する。あのときのそれである。これは謂はゆる宗教に限ったことでなく、いかなる芸道に於ても同様である。しひてさうならうとするのではなく、おのづからさうなるのである。
 純粋無垢のものが古来我国に存在した。それは多くは何の象徴をも要求せず、やまとしまねに温存されて長い歳月を経たのであるが、やがて所謂外来文化が移入せられるやうになると、その外来の象徴を更らに純度の高いものへ持ち上げずにはおかなかった。仮に音楽の方面からみてもさうである。
 笙といふ楽器は元来インドの先住民族の間に起り、南支那で発達し、奈良朝の初めに我国に入ったのであるが、支那輸入のものが吹口のところに長い嘴が挿入してあることは正倉院の御物や支那の古図をみてもわかる。嘴があれば息の使ひ方が頗る単純で、平安朝以後の雅楽でやるやうな息使ひのむつかしさはない。わが国の笙は吹口が極めて短小で、殆ど直接に笙を吹いて居るやうな感じのもので、その「息使ひ」と「手移り」とをもって、わが吹笙の技巧の最高とせられ、伝神の秘技を要する次第である。近代支那の笙は嘴は入れてないが吹口がラッパのやうに突出してゐて吹奏は容易であるが高雅な音は出ないのである。尚ほ此のことに関聯して、約千年の歴史ある旧社家に伝はる秘巻があって、これは大正八年の秋から大正十二年の春まで宮内省主殿寮にあづけられ、御用済みになって下げられたものを私は持って居るが、このことはまだ申し上げにくい。
 篳篥(ひちりき)は西アジアに発生し、天山南路から支那を経て我国に入ったが、中央アジアや支那における奏法は単純で、支那蕎麦のチャルメラを聴くのと異らないさうである。我国における其の奏法は、まったく神仙界の域に迫るものがあり、それが為めに其の名手の吹奏によって種々の霊異談さへ伝へられて居るほどで、またその構造の立派さも、笙とともに人間世界を荘厳するものである。
 尺八は古代エジプトの廬管の縦笛に期限し、アフガニスタンで竹管となり、西域から支那を経て奈良時代に我国に入ったが、あまり発達しなかったやうで、時代を経てから室町時代虚無僧とともに漸く発達する機運に乗じた。支那では細い竹で哀音を出すだけだが、我国では太い根つきの竹で、豪壮の音と哀切な音とを自在に出し、その吹奏の技法は精妙を極めたものとなり、一本の竹が千変万化の音色を出すことについて西洋の人も此を怪しむほどに驚嘆するに至ったのである。
 十三絃の箏は近代支那では殆ど亡び、十二絃のものは西支那で現に俗楽器として用ひられて居るが幼稚なもので問題にならぬ。我国では十三絃の箏が雅楽として保存されて居るのみならず、その独奏及び伴奏としての用法は近代に至り筑紫流以来独自の境地をひらき、元禄以後の生田流、山田流は更に驚くべき発達を示し、近くは宮城道雄氏や久本玄智氏の如き天才によって、新天新地を打開したといふほどの発達をみるに至った。朝鮮の十二絃箏たる伽倻琴も我が箏曲に雁行し得るといふが、それは外面的の技巧で、内面的の楽想が我に及ばないと専門家は評して居る。

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 三絃は西アジアからエジプトに入り、ペルシャに入り、モハメット教とともに西蔵、印度の境辺に入り、羊皮が蛇皮となり、四川省から揚子江を下って江蘇浙江あたりで行はれ、琉球の貿易船で我が堺港にもたらされ、その間いくぶん形状も変わり、蛇が猫に変ったりしたが、大きな撥を用ふる日本式奏法が案出せられて面目を一新した。今日の江戸長唄の隆盛をみるに至るまでの三味線の歴史を書く人があったら面白いものが出来るだろうと思ふが、ともかく特殊の味をもつ楽器として、ギターやマンドリンのやうなものとは全く異る生命のものを其の大きな撥の神技によって創作したのである。義太夫節が人情の精微を写し出す点に於いて世界無比といはれて居るのも三味線の力が大いにあずかって居ること申すまでもなかろう。斯ういふ風に世界独自の、優秀な文化芸術をつくり出しながら、実はそれほどに世界からみとめられて居らず、ものずきといふ程度の鑑賞の対象となる位ゐなことで、極めて少数の知己があったとしても、どこまでも世に知られないもの、理解されないものとして此の大和島根に温存されて居るのであるが、これを海外に宣伝するためにあせる必要は毛頭無いのである。磨かれたダイヤモンドの美しさは誰にでもわかるが、光って居た金をいぶして曇らせたいびし金の底味のうるはしさは其れだけな霊的素質がないとわからないのであるから、それがわかるほど人類の叡智が進むのを待たねばならない。けれどもさうした時代が近づきつつあるのを吾等は知るのである。一応斯ういふ問題とは縁遠いやうに思はれる自然科学の飛躍的発達の方面からも、どうやらさうした時代が近ずきつつある跫音を聴くことが出来るやうである。宗教は神を出発点として居るが、自然科学は神を目標として突進しつつあるのである。すぐれた科学者、アインシュタインやプランクや、又はジェーンスやエジントンのやうな人たちは、ひたむきに自然科学から神への旅を急ぎつつあるやうに思はれる。宗教と科学とは「純粋無垢なもの」につながって離れられない運命の旅をつづけて居るのであり、純粋無垢のものが生命であるかぎり総ての芸道とても同じ道を辿りつつあるもので、それは遠い将来であるにしても世界恆久平和の可能といふことが必然性を帯びてくることになり、終末論的な「暗さ」が世界人類の脳髄の白質層にホビヤとして灼きつけられて居る今日にも、「消えない光」として何処かに人間を導くつつ旅行く人々をいたはり慰めつつあるものと云えよう。
 ともかくにも「いぶし金」の文化を抱いて居ることは日本民族の宿命である。私は此は大事に守って行かなければならぬものと思ひ、それが余り近い将来でなくても必ずや世界の文化にも平和にも貢献する巨大なものであると確信するのである。
 この日本の「いぶし金」の芸道を、比較的多くの人にわかりやすく話すには、俳諧といふものがその適当なものの一つであることも異議はなかろうと思ふ。

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 談林時代までの俳諧は固(もと)より論外で、何といっても芭蕉によって「文芸」としての俳諧は誕生したものである。俳言といふのは俗語のことであるが、芭蕉によって、もうそんなことは問題でなくなった。芭蕉が提起したものは俳言ではなくて、即ち俗語詩ではなくて、「俳味」であった。俳味とは何であるかといふと、どうも数学の公式のやうに説明せられるものではあるまいが、「春雨の柳は全体連歌也、田螺とる烏は全く俳諧也。」といふ芭蕉の教へそのままに答える外はなかろう。春雨の柳が古典的な優雅を思はせるのに対して、農村の生活に即した通俗的な情景の中にも詩趣を見出した芭蕉の霊感が、日本人的な「もののあはれ」を「さび」と「軽み」とによって表現しようとしたのであらう。むろん斯ういふ風な説明は言葉が足らず、又た言葉を足せば足すほど「俳諧」から遠ざかる気づかひがあり、やっぱりかぶとをぬいで芭蕉の言葉通り「田螺とる烏は全体俳諧なり。」といふのが一番いい説明であらう。田螺とる烏、そこに何となく可笑味(おかしみ)の詩趣をほほゑましく感ずるといふやうな意味でもない。ただ田螺とるカラスである。これは或いは絵画で説明した方がいいかも知れぬ。田螺とる烏の図を国栖(くず)紙にでも描いて貰っらそのまま俳諧を視覚を通して解することが出来ると思ふ。
 芭蕉は「松のことは松に習へ。」とも教えた。いっさいの私意私情をもって言葉を工むことを嫌ふのである。私意を去って純粋無垢のものに詩を見出さうといふのであらう。
 芭蕉は「さび」を説き「しをり」を説き「細み」を説いた。「さび」といふ芭蕉の大きな理念は奥の細道の旅の間に工夫されたものと専門家は言ふが、芭蕉の工夫といふよりも、彼が天啓に触れたものといふ方が俳諧的な物の言ひ方ではないが適当と考えられる。彼は其の「ほそぼそ」とした奥の細道の旅で、「さび」といふ神の象徴をへられたので、「さび」は芭蕉の宗教でなけらねばならぬ。「さび」といったからとて、普通の一が考へるやうに、単に閑寂といふやうなことを表現する術語ではないのである。芭蕉の高弟たちの中で、「さび」の衣鉢を正伝 したらしい去来が「さびは句の色なり、閑寂なる句をいふにあらず、たとへば老人の甲冑を帯して戦場に働き、錦繡(きんしゅう)をかざり御宴に侍りても、老の姿あるがごとし、賑(にぎ)かなる句にも静かなる句にもあるものなり。」といって居る通りである。「さび」といふ語は動詞「さぶ」の名詞形で、「さぶ」は物の老い古びたる義である。荒涼とかの意もある。「さび」といふ言葉は芭蕉時代から遙かに古く遡(さかのぼ)って、俊成の歌評(判詞)にも出て居る。「さびたる姿」とか、「さびたるさま」とかに「いぶし金」の美を意味させたのは平安鎌倉以来のことである。しかしそれが芭蕉に直接につながりをもつやうに考えるのは無理とすれば、室町時代に入ってからの心敬の連歌論からであらう。心敬はその師正徹の幽玄論を発展させて幽玄の美を連歌の最高理念としたのである。幽玄余情の極致を「さび」とか「ふけ」とか「やせ」とか説いて、最も高い美はしさは常に表現を超えたところにあることを力説したのである。「有明の月、枯野のすすき」の如き枯淡閑寂の味ひを心敬は人々のに理解させようとしたのである。芭蕉は心敬から導かれたことは間違ひのないところであらう。けれどもそれが彼の明白な理念となったのは奥の細道の旅に於て、神の象徴として「
「さび」の美感を完成的に味ひ得てからであらう。

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 芭蕉は又た「細み」といふことを、よほど気にしたやうである。俳諧における細みとはどういふ趣きであらうか。芭門の人たちが「細み」について書いて居るものからみると弱小といふやうな意味は少しも含まれて居らず大体は「さび」の余情につづく感覚のやうであるが、又た一(ひ)と筋に細々と心が凝(こ)って美感に溶け入る心をも「細み」と伝え、手ぢかの卑近な微細のものにも詩美を見出す霊感をも「細み」といって居るやうであるが、要するに神韻余情を感得する心のはたらきを意味して居るやうに思われる。通俗卑近なものの中から「さび」の美をさぐる心、それが細み」として伝わるものであるやうに「去来抄」や「俳諧耳底記」の中から読みとれる気がするのである。ちかごろの青年俳人の中には、さびだの、そんな昔の人の感情の糟粕はどうでもよい、われわれは世界一の短い詩形によって万象を歌い、万感を表現すればそれでいいのだ、といふやうなことをいふ人があり、またそんな風調が大勢を制して居るやうであるが、芭蕉の俳諧精神は少数の人たちでもいいから是非大事に守って行っていただきたいものとふ。われわれ門外漢が柄にもないことを提言する必要もないやうなものではあるが、民衆的な詩で、しかも文芸性の高い芭蕉の芸術は中世の歌道より上位にあるものではないが下位にあるものでもないのである。されが崩れて行くのを見て居ると、われわれの魂が虫食まれて行くやうな淋しさを感ずる。二十年前にフランスで流行しかけた俳諧は物にならなかったとしても、永久に多民族に理解されぬものと考へられぬ。それそれの特色があるにせよ、何等かの宗教を有し、高度の文芸を有する人類であるかぎり、いつかは真に理解し合い、会得し合い、尊敬し合はねばならぬ宿命のものであると吾々は考えたい。しかし芭蕉の「さび」とか「しをり」とか「細み」とかいふものは明日以後の日本では一層つめたく待遇せられるものであるにちがひないし、そんなものを守って行く人々は、つらい旅をつづけて行く人たちであらうけれど、もとより名利の念などかなぐり捨てて、身辺から荷物をも捨て去っても、一鉢をもって江湖に雲遊する托鉢生活をつづけていただきたいものである。近ごろの人の句では虚子の「遠山に日のあたりたる枯野かな」の如きが、ほそぼそと芭蕉の道を伝へて居るものと思われる。平明の中に無限の詩美と俳味とをつないで居る此の虚子の句のごときは後生に伝ふべきものであらうと思われる。こんなことを私がいふのは何も俳諧のためにのみいふのではない。「石城山の宗教」のためにも言ふのである。

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 芭蕉は又、晩年には特に「軽み」といふことを提唱したやうである。「軽み」といふことは軽浮とか軽薄とかいふ言葉を聯想しやすいが、もとよりそんな意味は毛頭なく、「甘み」を抜くことに生涯の精進をした芭蕉が当然辿(たど)りつくべきところで「軽み」といふことは彼が早くから唱へたやうであるが、特に晩年に於いて強調したことは文献の上に確証のあるところでである。軽みは平明であり、停滞せずに流れるものであり、濃厚な味を去ったものであるが、ただ平易通俗といふやうなものではない。許六の言葉からいへば「軽み」とは俳諧のためにの底を抜く工夫をつづけることで、「さび」とか「しをり」とか「細み」とかに腰をかけて居ないことであり、不断に新生面をひらき、純粋無垢のものを追求する芸術精神である。「甘みを抜きたる俳諧」を求めて旧染にとどまらず、俳諧の底を抜くことが軽みであった。濃厚とか繊巧とか手のこんだ、こってりした味ひが甘みであり「さび」や「細み」でさへもが、どうかすると甘みになりたがるので、その甘みを抜き、底を抜くのが芭蕉の「軽み」の精神であった。去来は「軽の軽たるを知らずして、みだりに此れを好まば卑薄に落ちん。」といって居るが軽みが言葉や趣向の平俗を意味するものでないことをいふのであらう。去来の手紙に「翁曰(おきないはく)。俳諧は暫(しばらく)も住すべからず、住するときは重し。」ともあるが旧染の重みを嫌ふのが軽みであらう。この軽み精神は芭蕉の俳諧道だけでなく、実は諸道に於ても同じことが考へられたのであり。茶道の祖、珠光の手紙にも「花のこと、座敷よきほどかろかろとあるべし。」などある。茶道の花が座敷が立派であるほど軽ろ軽ろとあるべきことが守るべき道でああった。それでないと茶道の「わび」の美は濁されることになるからである。音曲の如きも重く深く進んで修行が積むと垢抜けのした軽みの神技に入って行くものであった。画道のごときもさうであり、土佐派の画論には「それ画の要は軽の一字にあるのみ、真の極彩色也とも軽の意を忘るべからず。」とある。例の蕪村の離俗精神なるものも要するにそれで、ただ画趣の平淡とか筆致の暢達とかを意味するだけでないので、狩野章信が「神妙二品は軽の一字たり。」と説いたのも同じことで、日本の芸道の秘奥が外国の人に容易に会得されにくいのも、斯くいふところが、一と通りの説明位ゐでわからないからであると思う。石城山で霊学をやって居られる人々も、斯ういふところに深い工夫がいたさるるのでなければ、ただ山を登ったり下ったりせられるだけでは進境が思はしくないのであらう。
「軽み」といふことが、旧染の重みを破って日に日に新しい生面を開くことであっても、それは古い約束を叩きつぶすといふわけのもおであってはならない。軽みを唱へた芭蕉は依然としてさびや細みの行者であった。明治になって正岡子規のやうな天才が出て、新しい俳句の天地を開闢したといっても、彼は決して芭蕉の反逆者ではなく、芭蕉精神の扇揚者であったので、鬼城あたりも随分と個性を発揮したけれど芭蕉の道を巡礼する純真の行者あって、ちかごろの所謂(いわゆる)新傾向の俳句を提唱する人たちの中の、或人々のやうな乱暴なものではなかった。支那の詩にしてもインテリの間で二十年ばかり前に北京大学あたりを中心に、無韻無平仄(ひょうそく)の白話体の詩新運動が起こされたけれど、それは所詮西支那の十二弦の箏曲のやうなものでしかなかった。世界は限りなく進むといっても、精神文化の面に於ては、必ず一つの最高峰の時代といふもんが、西欧でも何処でも例外なしにあるもので、それを尚(とふと)ばずそれを師とせず、それを基準とすることもなくしては堕落するものである。支那の詩にしても盛唐時代中唐時代のやうなものは後生に収穫が絶無である。漢詩はどこまでも唐詩を目標とせねばならず、それは人間が勝手にしたものでなく、神の象徴だからである。日本の芸道でも奈良、平安、鎌倉とそれそれの時代にそれそれの権威出現時代があったので、歌道には歌道の最高峰時代があったごとく、俳諧道では何としても芭蕉を永遠の代表者として畏敬しなければならぬ。畏敬すべきものを畏敬するのが、われわれ人間の尊貴性を保護する所以である。他民族が畏敬するものに対しては、やはり畏敬を表さなければならぬ他民族が畏敬するところを蹂躙して憚(はばか)らざるものは、みずからの品性の下劣さを意味する以外の何ものでもない。これは同民族が過去の文化に対する場合も亦た同様である。人類は如何なる民族が有する神の象徴に対しても、恭謙な態度であらねばならぬ。

ーーー昭和二十年十月二十四日ーーー

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